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| 今週のコラム |
| 2022年3月27日「主に堅く信頼して」 北王国はアッシリヤ帝国に攻め滅ぼされ、消えてしまった。次は南ユダ王国が滅ぼされるか?という厳しい国際情勢の中におかれた南ユダ王国のヒゼキヤ王であった。 しかし、ヒゼキヤ王は、主なる神に堅く信頼し、主から離れることなく、主の戒めに聞き従った。そしてアッシリヤ王には服従しなかった。 ヒゼキヤ王は、私たちの模範となる人である。周りの厳しい状況をよく理解しようとする。けれども、主イエス様に堅く信頼し、主から離れることなく、主の言葉に従って歩もう。 |
| 2022年3月20日「主なる神のみを」 新約聖書に登場する「サマリヤ人」は、ユダヤ人と犬猿の仲であった。「サマリヤ人」は、アッシリヤ帝国が、イスラエル北王国の住民をアッシリヤ国内に移住させ、代わりにアッシリヤ国内から別な人々を元北王国内に住まわせた人々の子孫である。アッシリヤに連れて行かれていた「ひとりの祭司」が、サマリヤ人たちのところに遣わされ、彼らに主なる神様を礼拝することを教えた。この人々は、これを機に主なる神をあがめたが、表面的な習慣に過ぎなかった。彼らは、これまで通り自分たちが信じてきた神々を礼拝し、仕えていた。 しかし、主なる神様は、すべての人が、まことの主なる神のみを礼拝することを求めておられる。私たちは、いつも心の中心にイエス様を迎えて、祝福された歩みをしていこう。 |
| 2022年3月13日「祝福の源」 イスラエル北王国最後の王となったのは、ホセアであった。最初、ホセア王はアッシリヤ帝国に従う姿勢を見せていたが、途中、同盟関係を築くためにエジプトに使者を送り、これまでアッシリヤに納めていた貢物を納めなかった。怒ったアッシリヤの王は、ホセア王を捕え牢に入れ、北王国全土に攻め込み、王宮のあるサマリヤの町を3年間、包囲した。ホセア王の9年目にサマリヤは陥落し、北王国の住民はアッシリヤ国内に移住させられた。神様が、人々を強制的に偶像礼拝から離されたのであった。 このことは、私たちの祝福の源である主なる神様に人々が立ち返り、祝福に預かってほしいという神様の切なる願いによるものである。私たちも祝福の源である主イエス様に信頼して、すべてのことを感謝し、祝福された歩みをしたいものである。 |
| 2022年3月6日「イエス様と一緒に過ごす」 歩いておられるイエス様を見かけた、バプテスマのヨハネは、「見よ、(世の罪を取り除く)神の子羊」と言った。すると彼の二人の弟子は、イエスの後について行った。イエス様は二人に「あなたがたは何を求めているのか」と尋ねた。二人が「先生、今どこにお泊りですか」と聞くと、イエスの答えは「来なさい。そうすれば分かります」であった。続いて「その日、彼らはイエスといっしょにいた」と記されている。この出来事は二人の人生の根本的な転換点となった。大切なことは、イエスの泊っていた場所ではなく、イエス様と一緒に過ごすということであった。 私たちの日々の歩みにおいて、イエス様と一緒に過ごすことが、人生を変える転機となるのである。永遠のいのちを与えてくださるイエス様に信頼して、ついて行き、ともに過ごす時間を持ちながら歩もう。あなたや私の人生は、平安と喜びに満ちたものに変えられる。 |
| 2022年2月27日「主なる神様中心に」 南ユダ王国のアハズ王は、父祖ダビデ王とは異なり、自ら積極的に偶像礼拝を行った王であった。彼は、主なる神様を捨てて、自分の目線で確かなものにすがって歩んだ。ところが、その生き方は大きな代償を払うことになった。政治的にアッシリヤ帝国の王に寄り頼んだために、アッシリヤ王に贈り物をし、要求される貢物を納める始まりとなった。宗教的にも、エルサレム神殿の礼拝の形式や方法を神様が示されたものからアッシリヤの異教の神殿礼拝の形式や方法に変えてしまった。それは神様の裁きによって王国が滅びる道に通じていた。 私たちも、自分の目線で確かなものにすがって歩むことが正しいと思ってしまう誘惑がある。パウロは、私たちに、ローマ12:2において「この世と調子を合わせてはいけません」と警告し、「神の御心は何か…を知るために、心の一新によって自分を変えなさい」と勧めている。 自分の考えを中心にする歩みから主イエス様の考えを中心にする歩みに変えていこう。そこに神の祝福があり、平安と喜びが満ちている。 |
| 2022年2月20日「主の目にかなうことを」 南ユダ王国のウジヤ王(アマツヤ王)が亡くなり、その子ヨタムが王になった。先住民が行っていた異教の神への礼拝場所である「高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいていた。」という不十分さはあったが、「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおり、主の目にかなうことを行った。」(Ⅱ列王記15:34)と良い評価がされている。 国の政治・軍事・外交において安定化させ、経済的・文化的に?栄させることは、王としての務めであった。しかし、もっとも大切なことは、王自身が主なる神様に信頼して、命令に聞き従う姿勢であった。 「まことに、その人は主の教えを喜びとして、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。」(詩篇1:2~3)と約束されている。私たちは、共に歩み、最善をなしてくださる主イエス様に信頼して歩みたいものである。 |
| 2022年2月13日「心の中心にだれが」 イスラエル北王国崩壊前夜である。主なる神様に背を向け、偶像礼拝を繰り返していた王たちと人々の姿があった。すると神の預言のとおり、東のアッシリア帝国に北王国北部の町々は征服され、住民はアッシリア帝国内に強制的に移住させられ、不自由な生活を強いられた。 これは、偶然起こった出来事ではなく、神の民であるイスラエルの王と人々が、主なる神様を捨てて、偶像礼拝に走った結果であった。 私たちも今一度、信仰の姿勢を正していこう。あなたや私の心の中心には、イエス様が座っておられるであろうか。もし、自分自身が心の中心に座っていると気が付いたら、方向転換をして、イエス様を中心に据え、イエス様をほめたたえ、感謝し、その言葉に従って歩んでいこう。必ず、イエス様は、私たちを祝福してくださる。 |
| 2022年2月6日「この方こそ神の子」 イエス・キリストが来られる準備をするように語ったバプテスマのヨハネは、自分の方に来られるイエス様を見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。そしてイエス様は、神の子として「聖霊によるバプテスマを授ける方である」と語った。イエス様は、ご自身の命をささげて人々の罪をあがない、私たちに聖霊のバプテスマを授けて永遠のいのちを与え、神の子どもとして祝福された歩みができるようにしてくださった。 私たちは、イエス様から与えられたこの恵みを感謝して、イエス様を信じて歩むことの喜びを周りの人々に伝えていこう。 |
| 2022年1月30日「主イエスに目を」 北王国のメナヘム王が亡くなり、彼の息子ぺカフヤが王座に着いた。彼も、歴代の王たちと同じく「主の目の前に悪を行い、…ヤロブアムの罪を離れなかった」とあり偶像礼拝の罪を犯していた。最期は、彼の侍従ペカの謀反により打ち殺された。もっとも信頼できるはずの部下の裏切りによって殺害されたのである。まことの神に信頼しない人間は、自らの野望をかなえること、自分の目に正しいと思う企てを行うことが当たり前であろう。人間関係は、いつも緊張し、他人の動きを常に警戒し、反撃姿勢を崩すわけにいかない。 このような人間関係から解放されるための秘訣は、私たちの羊飼いであるイエス様に目を向けることである。そうする時に、私たちは人間関係の緊張や警戒、反撃しようとすることから解き放たれる。私たちは、私たちを愛し共に歩まれる主イエス様から目を離さないようにしよう。 |
| 2022年1月23日「主なる神様だけを」 北王国、メナヘム王の神様からの評価は悪かった。「彼は主の目の前に悪を行い、一生、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」(Ⅱ列王記15:18)。北王国歴代の王たちは「ヤロブアムの罪から離れなかった」。偶像を造りそれを神として拝んだのである。しかもメナヘム王は「一生…離れなかった」と強調されている。これらの罪により北王国は、まもなく滅びるのである。外交の失敗でも、軍事力の弱さでもなく、北王国の王たちが、主なる神様を捨てて、偶像を礼拝する罪や異教の神々をあがめ仕える罪を犯したため滅亡したのである。 私たちの人生の祝福は主イエス様によって与えられる。主イエス様をあがめ、信頼し、神の言葉に聞き従って歩もう。「その人は何をしても栄える」(詩篇1:3)と約束されている。 |
| 2022年1月16日「神の恵みの深さ」 エフー王朝が倒れ、イスラエル北王国末期の王座をめぐる抗争が激化していた。在位6カ月のゼカリヤ王を殺害したシャルムは、わずか在位一カ月でメナヘムによって殺された。そしてメナヘムは、ティフサの住民を殺した。しかもすべての妊婦を切り裂いたほど残虐であった。おそらく、シャルムを支援した町であったのであろう。まことの神様に対する信頼を失っている人間は、これほどまでに残酷になることが明らかになっている。(Ⅱ列王記15:13-16) 私たちを含めて、すべての人間は罪を抱えている。その罪をゆるし、永遠のいのちを与えるために、キリストは十字架で罪をあがなわれた。そこに示された神の恵みの深さ、高さ、大きさを思わずにはおられない。私たちは、キリストにあらわされた神の恵みに感謝して、キリストの御声に聞き従って歩もう。 |
| 2022年1月9日「神は真実な方」 北イスラエル王国のエフーは、最悪と呼ばれたアハブ王が行っていたバアル礼拝を一掃した。そのため、神は、「あなたの子孫は4代目まで、イスラエルの王座に着こう」(Ⅱ列王記10:30)とエフーに約束された。エフー王朝の4人の王たちは、全員神に不忠実であったにもかかわらず、その約束のとおりに4代目のゼカリヤ王まで王位に着いた。それは、神が真実な方であるがゆえにご自身が約束されたことを守る方だからである。 キリストを信じて歩む私たちは「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(へブル13:5)と約束された神の真実に信頼して、従って歩もう。 |
| 2022年1月2日「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら」 他の人からの理不尽な言動には「やり返したい」と思うのが私たちの本音であろう。しかし、ダビデは「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」と口を閉じて、主なる神様に希望をもち、自分の頭の中から敵対する者に対する否定的な思いを追い出し、神様にゆだねている。 そしてダビデは、ひたすら、「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」(詩篇62:5-7)と神様のことを考えている。この信仰姿勢は私たちの信仰の模範である。 そして私たちに勧めている。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。神は、われらの避け所である」(同8)新しい年、どんな時にも、主なる神様に信頼して歩んでいこう。 |
| 2021年12月26日「主の前にへりくだって」 南ユダ王国のアザルヤ王は、別名ウジヤ王とも呼ばれ、ダビデ王以降、南ユダ王国にて最も大きな働きをした王であった。彼は、主の目の前にかなうことを行った王であった。しかし、彼は王として力をつけ実績を残すと、高ぶり、身に滅びを招いた。祭司たちの役目であった主に香をたくことを自ら行い不信の罪を犯し、主が彼を打たれ重い皮膚病にかかり、公務を果たすことができなくなった。 私たちも働きにおいて実績を上げると、主に支えられていることを忘れ、自分の力で達成したと高ぶる誘惑が常にある。今年一年の歩みを振り返り、主イエス様に支えられ、守られての歩みであったことを感謝し、主の前にへりくだって歩んでいこう。 |
| 2021年12月19日「神に忘れ去られていなかった人々」 救い主の降誕を最初に知らされたのは、住民登録の声もかからなかった忘れ去られた羊飼いたちであった。彼らの信仰については何も書かれていない。ただ御使いのメッセージを聞いて、素直に「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と出かけ、「羊飼いたちは見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のであった。 私たちも、神のメッセージを聞いたなら、素直に聞き従って歩もう。そこには、神への賛美と感謝、喜びが満ちあふれる。 |
| 2021年12月12日「居場所がなかった」 「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)。住民登録のためヨセフと身重のマリヤ夫妻は、夫の故郷であるベツレヘムに旅立った。小さな町ベツレヘムに住民登録のために大勢の人々が訪れていたためか、産気づいたマリヤは宿屋ではなく家畜小屋で男の子を出産した。旧約聖書には、救い主であり、王である方が生まれることは幾度も記されており、人々は、それを知っていた。にもかかわらず、現実に救い主が来られた時に人々は関心を示さなかったがゆえに、彼らの居場所が家畜小屋となったのであった。 私たちは、救い主として来られたキリストが、私たちの傍らにおられ、守り祝福してくださっていることを常に信じて歩みたいものである。 |
| 2021年12月5日「あなたのお言葉どおり」 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)。神から遣わされた御使いガブリエル語った事、マリヤが聖霊によって身ごもり男の子を産むとの約束に対するマリヤの返答である。御使いの語ったことは、婚約者の不信感と怒りを招くかもしれない言葉であった。 しかし、マリヤは、ためらうことなく、お言葉どおりにこの身になりますように、と答えた。恵みの神に対する深い信頼があったゆえである。私たちも、恵み深いイエスに信頼して「あなたのお言葉どおりにこの身になりますように」と祈りつつ歩みたいものである。 |
| 2021年11月28日「インマヌエルの神」 本日から12月24日まで教会の暦の上ではアドベント(待降節)、イエス・キリストの降誕を待ち望む時となる。イエス様は「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)と言われ、その意味は「神は私たちと共におられる」、つまりイエス様は、私たち人間と共に歩まれる方である。私たちが心の中にイエス様を迎え入れることを決めたなら、その時からイエス様はあなたの中に住まわれ、共に歩み、助け、悪い者から守られている。 私たちは、静まって、イエス様に語りかけ、御声を聞こう。そして、いつでも、どこでも、イエス様が一緒におられることを忘れず、尋ね、聞いて歩もう。必ず、主は、私たちの歩みを守り祝福してくださる。 |
| 2021年11月21日「まず第一に」 北イスラエル王国にヤロブアム王が就き41年間治めた。北王国最初のヤロブアム王と区別するためヤロブアム2世と呼ばれる。彼は、有能な王であり、近隣諸国との争いに勝ち領土を広げ、国は?栄した。しかし、この時期に神から遣わされた預言者アモスによれば、人々は贅沢に暮らすことを求め、貧しい人たちを顧みなかった。経済的、文化的には栄えたが、まことの神様をあがめ、仕えることがないがしろにされ、偶像礼拝がされた。このため預言者アモスが遣わされ、悔い改めてまことの主なる神様に立ち返るように求められた。 私たちは、「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい」(マタイ福音書6:33)との神の言葉に聞き従って歩もう。 |
| 2021年11月14日「高慢は破滅に先立つ」 ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。彼は、主の目にかなうことを行ったが、ダビデ王とは違い、真実な心で主なる神様の望まれる生き方をしようとはしなかった。ユダ王国が彼の手によって強くなるとアマツヤ王は高ぶるようになり、偶像礼拝をしていた父ヨアシュ王を殺害した家来たちを殺した。エドムとの戦いに勝つと今度は、北王国イスラエルの王ヨアシュに戦いを挑んだ。 ヨアシュ王は、戦いを思いとどまるように、アマツヤに語ったが、聞き入れなかった。初めての北王国と南王国との戦いとなったが、ユダはイスラエルに打ち負かされた。「高慢は破滅に先立つ」(箴言16:18)の言葉どおりであった。私たちは、主イエスに罪をゆるされたものとして、常に自分の弱さの中に神の力があらわされると信じて、謙遜に歩んでいきたいものである。 |
| 2021年11月7日「主の道をまっすぐにせよ」 バプテスマのヨハネは、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』とあら野で叫んでいる者の声です」(ヨハネ福音書1:23)と言った。「主の道」とは、天から肉体をもってこの地上のイスラエルの人々の所に来られる救い主の道である。 それは、自分たちの願いを実現してくれる救い主ではなく、救い主の願いを私たちが実現するのである。私たちは、心の中に救い主イエスを迎え、共に歩み、主の御旨を聞き、それに従って歩もう!それこそが、「主の道をまっすぐにする」ことである。 |
| 2021年10月31日「どうしても必要なものは」 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して。気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずか です。いや、一つだけです。マリヤは、その良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカの福音書10:41,42) いろんなことに気を使っているマルタに必要なものは一つだけであるとイエスは語られた。マリヤは、イエスが訪ねて来られた時、イエスの傍らで、彼が語られる言葉に耳を傾けることに徹した。イエスの語られる恵みの言葉によって、永遠のいのちを自分のものとできるからである。 人間が罪を犯すことによって、失ったものは、永遠のいのちである。私たちは、イエスによって永遠のいのちを再び与えられるのである。私たちもイエスの語られる言葉に耳を澄ませて、従って歩みたいものである。 |
| 2021年10月24日「エリシャの最期の仕事」 イスラエルのエフー王朝3代目の王がヨアシュであったとき。死の病を得ていた預言者エリシャの最期の仕事は、アラム軍の侵入に悩まされていたヨアシュ王を主にあって励ますことであった。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」とエリシャが言い、ヨアシュ王は窓から矢を射た。次に「矢で地面を打ちなさい」とエリシャがヨアシュ王に命じたところ、彼は3回打って止めてしまった。(Ⅱ列王記13章) エリシャは、これに怒った。ヨアシュ王が、主なる神様がイスラエルに勝利を与えようとされている恵みを無駄にしたからであった。 私たちは、私たちに示された主イエス様の恵みを感謝して受け取り、与えられている使命や働きに励んでいきたいものである。 |
| 2021年10月17日「主が良くしてくださったことに」 イスラエル北王国、エフー王朝の2代目のエホアハズ王。子牛の像を主なる神として仕える罪を犯し続けた。主なる神様の怒りによりイスラエルはアラム軍に悩まされる。しかし、エホアハズ王が主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。一人の救い手により安心して暮らせるようになった。これは主なる神様の一方的な恵みであった。エホアハズ王が偶像礼拝を悔い改めたとは書かれていないからである。にもかかわらず、エホアハズ王は偶像礼拝の罪から離れなかった。ゆえに主は、イスラエルを本当に弱められた。(Ⅱ列王記13章) せっかく主なる神様が良くしてくださったのに、罪から離れないことは、みすみす自分で神様の祝福を逃してしまうことになる。主の良くしてくださったことを忘れず、私たちは感謝して主なる神様に仕えていきたいものである。 |
| 2021年10月10日「天の故郷にあこがれて」 旧約聖書に登場する人物、アベル、エノク、ノア、アブラハムとサラなどは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じる、信仰の人として生き、死んだ。彼らは、地上では、一時的に滞在する旅人、寄留者としての歩みであると告白し、天の故郷を思い、あこがれていた。 事実、神様は、信じる者たちのために、天に帰るべき都を用意しておられると約束された。 私たちも、天の故郷を思い、あこがれ、やがてそこに帰ることが出来るという希望をもって、日々の務めに励んでいこう。 |
| 2021年10月3日「神を解き明かされた」 神を見たという人はいないであろう。ただ人となられた神のひとり子イエス様が、「恵みとまこと」という性質をもつ神を解き明かされたのである。神は、一貫して変わることのなく私たちを愛され、私たちに対して約束を守られる真実な方であることをイエス様はご自分の生き方を通して示された。 主イエス様は、羊飼いのように私たちと共に歩み、行く道に必要なものを準備し、私たちを悪から守り、生き先まで導いてくださる。私たちは、イエス様から離れず、その声を聞きながら従って歩もう。それこそが、安全で祝福される道であるからだ。 |
| 2021年9月26日「あなたの行く所どこにおいても」 わずか7歳で南ユダ王国の王となったヨアシュは、40年間王であった。「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間は、いつも主の目にかなうことを行った」(Ⅱ列王記12:2)と条件付きで良い評価がなされている。指導してくれるエホヤダがいた時には、神の前に正しい歩みができたが、亡くなると自分勝手に行動したのでした。Ⅱ歴代誌24章には次のようにある、エホヤダの死後、ヨアシュ王は、主を捨てて、アシェラと偶像の神々に仕えた。神は預言者を遣わし、悔い改めを求めたがヨアシュは無視した。結果、彼の家来たちの謀反により殺害された。 私たちは、信仰の先輩や助けてくれる人がいても、いなくても、いつも心の中心にイエス様を迎えて一日の歩みを進めていこう。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6) |
| 2021年9月19日「神は真実な方」 アハブ家は滅亡した。ところが唯一例外者がいた。アハブ王の娘で、ユダ王ヨラムに嫁いでいたアタルヤである。南ユダ王国の王である息子アハズヤが死んだと聞き、彼女はダビデ王の一族をすべて殺した。そして自ら王となり6年間 南ユダ王国を治めた。ダビデ家存亡の危機であった。しかし、助け手が送られた。亡くなったアハズヤ王の異母姉妹であるエホシェバが、アハズヤ王の息子の一人ヨアシュをアタルヤから隠し、祭司エホヤダと共に彼を神殿にかくまい育てた。そして7年目に、ヨアシュは南ユダ王国の王となり、アタルヤは殺され、アハブ王に関わる者は完全に滅ぼされた。このようにしてダビデ王の家系は絶えることがないとの神の約束は守られた。 主なる神は、真実な方である。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)との神の約束は守られたのである。私たちは、真実な神である主に信頼して歩もう。 |
| 2021年9月12日「殺人よりひどい悪」 私たちは、殺人よりひどい悪はないと考えている。ところが、Ⅱ列王記10章では、神様の命令により、王に任命されたエフーは、アハブ王一族とバアルの神に仕える人々全員を殺害し、バアル礼拝を一掃している。そしてこの命令を実行したエフーを神様はほめておられる。私たちには理不尽な出来事で理解しがたいことである。 しかし、神の民であるイスラエルの人々が、主を捨てて、他の神々を拝み仕えることは重大な罪であり、神の裁きにあうことが、神様によって度々警告されていた。異教の神々をあがめ、仕えることは決して些細な罪ではないのである。 すべての人間の罪があがなわれるために、罪のない神のひとり子の尊いいのちが十字架で理不尽なかたちで犠牲とならなければならなった事実に、そのことがよくあらわれている。 私たちの神に対する罪がいかに重いかを覚え、イエス様のいのちの犠牲により罪があがなわれ、信じる者に永遠のいのちが与えられる神の恵みとあわれみに感謝して、主イエス様に聴き従って歩もう。そのことにより必ず神様の祝福が兄弟姉妹に豊かにもたらされるのである。 |
| 2021年9月5日「恵みとまことに満ちた方」 約二千年前、私たちと同じ肉体を取られたイエス・キリストは、「恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ福音書1:14)。恵みとまことは、主なる神様の性質である。100%人間であったイエス様は、100%神様であった。ゆるがない一貫した愛で私たちを愛し、常に真実であることにおいて、イエス様は主なる神様そのものである。イエス様に信頼して、順調な時も逆境の時も前に進んで行こう。必ず、すべての出来事は祝福につながっていくのである。 |
| 2021年8月29日「神の平和の計画」 預言者エリヤによって、イゼベルの裁きの死が告げられて約20年後、エフーが彼女を殺害することによって成就した。イゼベルは、主なる神様の預言者たちを殺害し、イスラエルの人々にバアル礼拝を奨励していた(Ⅱ列王記9章)。イゼベルの行った偶像礼拝が神様の御心を悲しませる重大事であることを教えている。私たちは、神様を第一とすることを心に刻んで歩みたいものである。 そして、イゼベルの死は偶然起こったのではなく、神様の平和の計画に従って起こったことであった(エレミヤ書29:11)。私たちに起こる日々の出来事は、すべて平和の計画に従っているものである。 私たちを愛してくださる主イエス様から目を離さず、すべての出来事は、神様の平和の計画であると信じて受け止めていこう。そこには、必ず将来と希望が与えられる。 |
| 2021年8月22日「神をおそれて」 神の命令によって、北イスラエル王国のオムリ王朝が終った。エフーが、仕えている王とその家系の者たちすべてを殺害してエフー王朝が誕生した。理由は、オムリ王の息子アハブ王とその妻イザベルが、主なる神を捨て、バアルの神を礼拝し、主の預言者たちを殺したことに対する神の復讐の指示があったからである。(Ⅱ列王記9章)神は悪を正しく裁かれる方である。同時に、忍耐と愛の方である。エリヤによって神の預言であるオムリ王朝の終焉が告げられて数十年が経っていた。その間、アハブ王が悔い改めて主に立ち返ることを神は待っておられたのである。 私たちは、日々主にすべてのことが知られていることを覚えて、へりくだって罪は主に言い表し、主キリストの十字架においてゆるされていることを感謝して歩もう。 「主は、…あなたがたに対して忍耐強くおられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテロ3:9) |
| 2021年8月15日「すべての事を働かせる神」 エリシャは、神の人として自分を支えてくれるシュネムの一人の女性に色々と気遣いをしたが、いつも良い結果となるわけではなかった。彼女は息子の死、そして財産の喪失という悲しみを経験した。それでも、彼女は、エリシャに対して忠実であり好意的であった。神は、そのような彼女に息子のいのちを取り戻し、飢饉から逃れるように助け、財産を取り戻すようにしてくださった。(Ⅱ列王記4章と8章)彼女は、神の人を守る人生を歩み。神は、彼女の人生を守るように働かれた。 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益をしてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28) 主イエス様に従って歩む私たちに対する神様の約束に信頼して歩もう。 |
| 2021年8月8日「主の言葉を聞きなさい」 「主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる」と語った預言者エリシャ。飢饉とアラム軍の包囲により、悲劇的な状況に陥って苦しんでいたサマリヤの町に食料があり余ると預言した。(Ⅱ列王記7章) この言葉を疑い「そんなことが起こるだろうか。起こるはずがない!」と語ったイスラエル王の侍従は、エリシャの「確かに、あなたはそれを見るが、食べることはない」との預言通りに裁かれ、死んでいった。 主なる神様は、あなたや私の置かれた状況や気持ちをよくご存じである。そして、あなたに必要な言葉を伝えてくださる。私たちは、日ごとに聖書を読み、神様の言葉を聞いて、信じて従って歩もう。主は約束通りに助けてくださる。 私たちは、ひとりで課題に向き合っているのではなく、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア記1:5)と約束されている主イエス様と一緒に歩んでいるのだから |
| 2021年7月25日「目を開いてください」 アラムとイスラエルの戦いにおいて、アラムの戦略は、全て預言者エリシャが神様から知恵により、イスラエルの王に筒抜けであった。これを知らされたアラムの王は、ドタンにいるエリシャを捕えようと夜のうちに大軍を送り、町を包囲した。 朝、この大軍を見たエリシャの召使は、恐れをなした。エリシャは、彼に「恐れるな。私たちと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから」と告げた。次にエリシャは、主に祈って言った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」。すると召使の目が開かれ、神の軍、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちている光景が見えた。そして、神の大軍によって、エリシャたちは守られ、勝利を与えられた。(Ⅱ列王記6章) 私たちも、様々な攻撃や非難を受けることがある。しかし、「主の使いは、主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)の約束通りにしてくださると私たちは信じて、“心の目を開いてください”と祈ろう。そして、「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ」(詩篇34:14)とあるように、私たちは善を行って歩もう。 |
| 2021年7月18日「聞き従うことの祝福」 アラムの国のナアマン将軍は、勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。異教の神々を信じて仕えていたナアマンが、重い病気がいやされ、主なる神様を信じ、仕える者となった。不思議な主なる神様の選びと導きであった。 そこには、「神様を信頼して、求められたことを行うならば、神様からの祝福を受けることができる」という信仰の原則があらわれされている。 「ご主人様は、サマリヤにいる預言者の所に行けば、きっと病気が治る」と言ったイスラエルの少女の言葉。「預言者が、“ヨルダン川に行って7度体を浸しなさい”という命令に従うよう」に助言した彼のしもべたちの言葉。ナアマンが、この2つの言葉に素直に従うことにより、彼の病はいやされ、彼は、“主”こそ、まことの神様であると信じて、仕える者となり、神様の豊かな祝福に預かることができた。 私たちも、主イエス様に信頼して、主の言葉に聞き従って、神様の祝福に預かろう。 |
| 2021年7月11日「何をしてあげようか」 預言者の仲間の一人が亡くなった。ところが、亡くなった人は借金を抱えていたため、貸主は、借金取り立てのため、彼の二人の子どもを自分の奴隷としようとしていた。彼の妻は、預言者エリシャにその窮状を訴えた。するとエリシャは「何をしてあげようか。あなたの家には、どんなものがあるのか?」と尋ねた。油を入れるツボが一つだけと彼女が答えると、エリシャは、近所の家からからのツボを沢山借りてきて、ドアを閉めて、家の中でツボの油を空のツボに注ぐように命じた。これらの油を売って、借金を返済し、母親と二人の子どもたちは暮らしていくことが出来た。 家族がバラバラになる危機に置かれた時、彼女は、神に仕えるエリシャに助けを求めた。エリシャは、困った人が主なる神に助けを求めたなら、必ず助けてくださる神の思いを知っていた人であった。 私たちも困った状況に陥ったなら、主なる神様に助けを求めることが、脱出の道である。必ず、“あなたのために何かしてあげよう”と思われている主イエス様が助けてくださる。 |
| 2021年7月4日「このいのちは人の光」 永遠の神にして、父なる神とは別の人格として親しく交わり、天と地を父なる神様と共に創造された「ことば」であるイエス・キリストは、私たち人間のいのちの源となる方である。 「このいのちは、人の光であった。」(ヨハネ1:4)とあるように、イエス・キリストは、私たちに永遠のいのちを与え、私たちに希望を与え、私たちの歩みを支えてくださるのである。 私たちの歩みには、苦難、病気、理不尽な非難など様々な患難が起こり、キリストに対する信頼が揺らされることもあるであろう。しかし、私たちは、「人の光」であるキリストが、あなたや私を愛し、いつくしんでおられることは、変わりないことを信じて歩んでいこう。 |
| 2021年6月27日「まさかの時には」 イスラエル北王国のアハブ王が死ぬとみつぎを治めていたモアブの王はそむいた。アハブ王の息子ヨラム王は、応援を頼んだ南ユダ王国のヨシャパテ王とエドムの王と共に戦いに赴いた。ところが、背後に回るため7日間も回り道をし、飲み水が底をついた。 この時、ヨラム王は、「主は、我々をモアブの手に渡すため、ここに召された」と絶望し、ヨシャパテ王は、「ここには主の御心を求めることのできる主の預言者はいないのですか」と主なる神に助けを求めようとした。そこで預言者エリシャが呼ばれ、「ヨシャパテ王のゆえに、主は、あなたがたに飲み水を与え、モアブをあなたがたの手に渡される」との神の約束を告げた。そして主がイスラエルに勝利を与えられた(Ⅱ列王記3章)。 私たちは、まさかの時、主に助けを求めていこう。主は必ず祈りを聞き、助けてくださる。 |
| 2021年6月20日「水質改善」 大切な神様から託された使命を全うした預言者エリヤが、天に召される日がやってきた。そして彼の弟子エリシャの目の前でたつまきに乗って、天に帰っていった。(Ⅱ列王記2章) エリヤの後継者となった預言者エリシャの初仕事は、エリコの町の住民から求められた水質改善であった。エリコでは水質の良くない水のせいで、人や家畜に流産が多発していた。神様から示されてエリシャは、水源に塩を投げ込み水質は改善した。エリコの人々を愛しておられる神様の深いあわれみがあらわされた出来事であった。 私たちに課題があることは、主イエス様の愛を知るチャンスである。主に解決を祈り求め、あわれみに預かっていこうではないか。 |
| 2021年6月13日「最後のチャンス」 「あなたは必ず死ぬ」、神からのアハズヤ王に対する厳しい裁きの言葉である。 アハズヤ王は、自分の病気が思わしくなく不安を感じて、異教の神に病状の行く末を聞こうとした。そのことに対する神の答えが、預言者エリヤを通して語られた「あなたは必ず死ぬ」であった。 主なる神の深いいつくしみから出た言葉であった。アハズヤ王を無視しないで、神は彼に裁きの警告をされたからである。アハズヤ王に、悔い改めて、主なる神に立ち返る最後のチャンスが与えられたのであった。しかし、アハズヤ王は、力ずくでもエリヤの告げた神からの宣告をくつがえそうとした。このため預言通りに、アハズヤの裁きの死が訪れたのであった。 私たちは、いつでも、どんなときにも、死と滅びから私たちを救い出そうと、気にかけてくださる主イエスが、共に歩まれていることを覚えていこう。 |
| 2021年6月6日「神のいつくしみときびしさ」 何気なく放たれた敵の兵士からの矢が鎧の隙間を貫き、アハブ王は命を落とした。偶然のように思えるアハブの死であるが、預言者エリヤを通して神が、アハブへの裁きとして彼の死を預言されたとおりに死んでいった(Ⅰ列王記22章)。まことの神様を捨てて、異教の神々に仕え、私利私欲のためには殺人さえ犯してしまったアハブ王の死にあらわされたのは、神のきびしさであった。 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。 倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」(ローマ書11:22)との警告が思い起こされる。 人の罪に対してきびしい裁きをされる主なる神が、イエス・キリストの十字架の死において、私たちに罪のゆるしと永遠のいのちを与えられる方でもある。私たちは、主イエス・キリストに信頼して離れないように歩んでいきたい。 |
| 2021年5月30日「へりくだる者に恵みを」 主なる神様を捨て、バアル神に仕えていたアハブ王は、主なる神の怒りを買った。さらに王宮の近くのナボテ所有のブドウ畑を譲ってもらえないことに腹を立て、アハブ王は、偽証者によってナボテを有罪とし処刑した。この後、預言者エリヤは、“神はアハブ王の家系を王位から退ける”と宣告した。 これを聞いたアハブは、断食をし荒布を着て、打ちしおれて歩いた。これをご覧になった主なる神は、アハブ王が主の前にへりくだったゆえに、裁きの時を次世代に遅らせるとエリヤに告げた。 「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからである。」(Ⅰペテロ5:5)とあるように、神は謙遜な者に恵みを与えられる方である。 ただ残念なことに、アハブ王は、バアル神を捨て、まことの神、主に信頼して、従うことはしなかった。このため、神のゆるしは得られず、神の裁きが次の世代に先送りされただけであった。 私たちは、キリスト十字架の死により私たちの罪をあがなわれたと信じる者として、日々自分の罪を告白し、神のゆるしに感謝し、主に従って祝福された道を歩もう。 |
| 2021年5月23日「主との出会いによって」 主なる神に熱心に仕えていた預言者エリヤ。神の命によって彼は、バアル神とアシュラ神に仕える預言者850人との対決に勝利し、彼らを殺した。その後、大雨の中、27キロを走った。 預言者をエリヤに殺されたと知ったアハブ王の妻イザベルは、怒りにもえ、エリヤ殺害に乗り出した。恐れたエリヤは、南のベエル・シェバに逃れた。木陰に座り込み、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」 (Ⅰ列王記19:4)。エリヤは、極度の緊張状態の後、全身疲労になり、アハブ王の妻から命を狙われることとなった。ピンと張った糸が切れたようにうつ状態に陥り、死を願った。 彼には休息が必要であった。眠っているエリヤに、神はパンと水を与えられた。同じことが2度あった。体調が回復したエリヤは、神の山ホレブに行き、主なる神と出会い、かすかな細い声を聞いた。エリヤは、新たな使命を示され、再び立ち上がることが出来た。 心のエネルギーを失った時、私たちは主なる神との出会いと、神からの語りかけにより、再び立ち上がることが出来るのである。日ごとの主との交わりを大切にしていこう。 |
| 2021年5月16日「主こそ神」 預言者エリヤ対バアルの預言者450人とアシュラの預言者400人で、どちらが本当の神であるかの対決が行われたことがⅠ列王記18章に記されている。 「薪の上の犠牲の雄牛一頭に火をつける神が、本当の神である」とエリヤは宣言し、異教の預言者850人と対決した結果、主なる神によって火がつけられた。民は、これを見てひれ伏し、「主こそ神です!」と告白した。 雨が降らず飢饉となった自然災害の意味は、“主が神である”ことが明らかになり、人々が「主こそ神である」と知り、あがめることであった。 私たちの身の回りで起きていることも、問題の解決だけに関心が注がれる傾向があるが、すべての出来事を支配しておられる神が、まことの神であることが明らかになり、私たちは「主こそ神です」と告白していこう! |
| 2021年5月9日「神から遣わされる預言者」 預言者とは、単に未来のことを予告するのではなく、神からの言葉を聞いて預かり、 人々に伝える者である。しかも、王や人々が、神の御心を悲しませるような在り方をした時に 登場し、神の裁きを告げ、方向転換をするように勧める。 北王国の最悪の王と呼ばれたアハブ王の元へ遣わされた預言者エリヤは、神の裁きの メッセージをアハブ王に伝えることになる。この時、エリヤ自身は、神によって大切に扱われている体験をした。 エリヤは、アハブを含めて人々に対する神の深い愛と配慮を知ったうえで、アハブ王に神からの裁きのメッセージを伝えたのである。神の計り知れないご計画であるといえるであろう。 |
| 2021年5月2日「主にゆだねよ」 悪を行う人が栄え、正しい者は小さくなってしまう。あってはならない事なのに、この世で当たり前のように起こる事である。悪を行う人への怒りや正しい事を行う事にむなしさを覚える事がある。しかし、聖書は「あなたの道を主にゆだねよ」(詩篇37:5)と勧める。 あなたの抱える重荷、心配、怒りや憤りを含めたすべての事を、主なる神様に負っていただこう! 嫌な顔ひとつしないで、いつでも快く、それらを背負ってくださる主の愛と、それらを負いきってくださる主の能力を信頼して歩もう。 |
| 2021年4月25日「苦しむ時、そこにある助け」 私たちの歩みには、自分たちの力では、どうすることもできないことが起こる場合がある。その時には、目に見えない神様より目に見えるものが頼りになりそうな誘惑が襲ってくる。 しかし、その時こそ、あなたや私の主なる神様への信頼が問われている時である。主は目に見えない方である。しかし、確かに主なる神様は生きておられ、私たちを顧みて、助け、必要なものを備えてくださる。そのことを恐れないで、信じて歩みたいものである。 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。」(詩篇46:1) |
| 2021年4月18日「ひとつの願い事」 あなたは、ひとつだけ神様に願うとしたら何を求めるであろうか。詩篇27篇の作者ダビデは、次のことを願った。 「私は一つのことを主に願った。 私はそれを求めている。 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。 主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」 (詩篇27:4) 有能な為政者、武人であったダビデが、もっとも願っていたことは、神の宮に入り、思いっきり主なる神様の麗しさを礼拝し、その思いにふけることであった。 仕事や生活する上で起こる事柄に心を奪われている私たちの信仰の模範としよう。多忙な中、ふと立ち止まって、上を見上げ「主よ、主の御顔の光を慕い求めます。」と 祈ろう。 |
| 2021年4月11日「必要なのは忍耐」 キリストを信じることは、神様からの大いなる祝福に預かることができると同時に、「あなたがたは、世にあっては患難があります」ヨハネ16:33とあるように、患難や理解できない出来事に遭うこともある。 「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(同上)とあるように、 苦しみや悲しみの真ん中にイエス様がおられ、助けてくださることを忘れないようにしよう。そして、 「あなたがたが、神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:35 と勧められているように、途中であきらめないで忍耐して、主なる神様を愛することを行っていこう。 |
| 2021年4月4日イースター「イエス様は出会われる」 私たちが、イエス様を信じるようになったのは、聖書の教えの素晴らしさを納得しただけでなく、今も生きておられるイエス様と出会い、心が聖なる神様の霊に満たされたからである。 イエス様の弟子たちも同様であった。 「キリストは、…死なれたこと…三日目によみがえられたこと…ケパに現れ、それから弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3~5) あなたや私の内に住まわれるイエス様は、私たちを通して、ご自身をあらわされ、出会われる。「主よ、あなたが捜し求めておられる人のところに私を遣わし、私を通してご自身をあらわしてください!」と祈りつつ歩もう。 |