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  今週のコラム

2023年3月26日コラム 「残るところなく愛を示された」

この世を去って天の父なる神のもとへ行く時を知り、イエス様は、愛する弟子たちに残るところなく愛を示された。当時のしもべの仕事であった足を洗うことを弟子たちにされた。主であり師であるイエス様が弟子たちの足を洗われたように、互いに足を洗い合いなさいと勧められている。

 イエス様が私たちを愛して仕えてくださったように、私たちもまた、お互いに仕え合うように求められている。信じる者の内におられる聖霊なる神の助けによって、お互いに仕え合って歩もう。神はその人を豊かに祝福される。

 

2023年3月19日コラム 「イエス様の最後の言葉」

 ヨハネの福音書12章44-50節は、イエス様が公に人々に語られた最後の言葉である。イエス様は、ユダヤの人々に、ご自分とご自分の語った言葉とを心を開いて受け入れるように強く勧められた。もし、受け入れないならば、世の終わりの最後の審判の日に、その人は父なる神に裁かれることを教えている。

これは今日の私たちにも当てはまる。私たちも、聖書を通し、聖霊によって一人ひとりに語られるイエス様とその言葉とを受け入れ、罪のゆるしと永遠のいのちを与えられ、悔いのない人生を喜んで歩んでいきたい。

 

 2023年3月12日コラム「豊かに実を結ぶ」

 「一粒の麦の種が、地に蒔かれて死ねば、時が来れば豊かな実を結ぶ。」これは作物が育つ常識である。同じく、罪のないイエス様は、ご自身のいのちを捨てて死ぬことによって、全ての人の罪をあがない、イエス様を信じる者たちに永遠のいのちを与えてくださり、豊かな実を結ぶのである。

 そして、神様は、信じた者たちも主の望まれる生き方をするために、自分の自我に死ぬことが求められている。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」とのイエス様の招きに応えて歩もう。

 

 2023年3月5日コラム「ロバの子に乗って」

 旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」の約束通り、イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムの町に入場された。なぜ、馬でなく、ロバの子に乗ってなのか。それは、平和を造り出すイエス様は、戦いの象徴である軍馬ではなく、平和のシンボルであるロバの子に乗ってエルサレムに入られたのであった。

 イエス様は、自分のいのちをささげて、神と人間との平和、人間同士の平和を造り出してくださった。イエス様を信じる私たちも、神との平和、対人関係の平和を造り出してくださった。その恵みを無駄にしないで、平和を造り出す者になろう。
 

 

 2023年2月26日コラム 「ナルドの香油を」

 過ぎ越しの祭りの6日前に、イエス様はベタニアに行き、マルタが用意した夕べの食卓にラザロとともに着かれた。マリアは、イエス様の足に非常に高価なナルドの香油を注いで自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐった。これを見た弟子のイスカリオテのユダは、「なぜ貧しい人たちの施しのために使わないのか」と非難した。するとイエス様は「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」と弁護された。

マリアは、まもなく死んでいかれるイエス様の葬りの日ために高価な香油を使うことは、無駄ではないと思い、自分の最善のものをささげてイエス様の愛に応えた。

イエス様の死により、私たちの罪があがなわれ、永遠のいのちと復活の希望を与えられた。あなたや私は、何をもってイエス様の愛に応えていくのか。


 2023年2月19日コラム 「一人が代わりに死ぬ」

イエス様の良い働きは、人々をイエス様を信じる人とそうでない人とに二分する。イエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡を行われた後も同様であった。マルタとマリアの痛みを分かち合うために来たある人たちは、イエス様を信じた。また、悪意を抱いて、この出来事をパリサイ人たちに報告した。

あわただしく召集された最高議会では、ラザロの奇跡に感動した人々が、イエスをメシア運動指導者として担ぎ上げるならローマ帝国によって国が滅ぼされるという心配や恐れが語られた。

大祭司は次のように語った。「イエス一人を処刑することは民族全体にとって得策である。」これは彼の考えを話したのではなく、神の考えの預言であった。まもなくイエス様は、人類すべての人の罪をあがなうために十字架で死に3日後に復活される。

あなたや私は、イエスを信じるのか、そうでないのかと問われている。信じて歩む者となろう。

 

 2023年2月12日コラム 「願いを聞いてくださる」

「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」とイエス様は父なる神様に祈られた。

イエス様はすべての人に永遠のいのちを与える栄光の方である事を人々に証しすることを願っておられたのである。そしてイエス様が、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと死んでいたラザロは、手足顔を布でまかれたまま墓からでてきた。イエス様の願いは、その通りに実現していったのである。

私たちは、イエス様の願いを自分自身の願いとする時、その願いは必ず実現するのである。私たちは、「主よ、私にあなたの願いを教えてください」と祈って歩もう。

 
  2023年2月5日コラム「永遠に死ぬことがない」
兄弟を亡くしたマルタは、「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」と信じていた。けれども、イエス様はマルタに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたはこのことを信じますか」と問われた。
 イエス様を救い主と信じる者は、永遠のいのちを与えられる。それは将来与えられるものではなく、いま永遠のいのちを持って生きている。私たちは永遠のいのちの内に生きていることを感謝し、周りの人にイエス様を証ししていこう。

 
 2023年1月29日コラム 「友が眠っている」
 エルサレム近郊のベタニア村に住む、イエス様によって愛されていたラザロが、病気で死にかかっていた。その知らせを聞いたイエス様は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われ、何もされなかった。
そしてラザロは死んだ。その後、イエス様は「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われた。イエス様は、弟子たちに、イエス様は罪の結果である死を打ち破る方であることを知って欲しいと願っておられたのである。
 イエス様を信じる者は、死に打ち勝ち永遠のいのちを持つことができるとの確信をもって歩んでいこう。
 
 2023年1月22日コラム 「わたしの羊たち」

 イエス様は、ご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでおられる。イエス様の羊たちとはどのような羊であろうか。それは、キリストの羊たちはキリストについて行くのである。そして、キリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださる。永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないのである。

 神様に引き寄せられイエス様の羊である私たちは、その約束を信じて、み言葉に聞き従って歩んでいこう。

 
 2023年1月15日コラム「良い羊飼い」
 良い羊飼いの条件は、「羊のためにいのちを捨てる」ことである。イエス様は、羊である私たちを罪と滅びから救うために、十字架にかかって死んでくださった。そして、私たちを死からいのちに移してくださった。
 主イエス様は、良い羊飼いとして、常に私たちと共におられ、悪い者から守り、必要な物を豊かに与えて養っておられる。いつも共におられるイエス様を覚えて歩もう。すべてのことは、私たちにとって益となるようにしてくださるイエス様に感謝をしていこう。
 
 2023年1月8日コラム 「教会はキリストのからだ」

 教会は、キリストのからだのイメージで語られている。イエス様を信じて歩むことは一人ではなく、仲間と共に歩むのである。それは、ちょうどイエス様を頭とし、私たちは、頭の指示で動くからだの一つひとつの器官のようである。各器官は、イエス様によって、関節や腱などによって“組み合わされ”、意見や考え方の違いを超えて一つに“つなぎ合わされ”、各自に与えられている能力や御霊の賜物に応じて使命をはたしていくことにより、教会は成長し、愛のうちに建てられていくのである。

 私たちは、信仰の家族と共に、イエス様の愛のうちに成長し、群れとして建て上げられていこう。

 
 2023年1月1日
コラム 「待ち望め、主を」

 新しい年を迎え、ダビデと同じように、私たちは「主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう」(詩篇27:1)と聖霊の力によって希望にあふれさせて頂いて歩もう。

私たちの今年の歩みには悩みは尽きないであろう。主イエス様に助けを求めても、答えがなく、見放されたかのように感じることもあるかも知れない。けれども、私たちの助けは、すべて主イエス様にかかっている。主に望みを抱いて歩む人生が、安らかな歩みとなるのである。

「待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を」

  
 
2022年12月25日コラム 「別な道を通って」

東の国から星の研究者の博士たちが、自分たちの国でユダヤ人の王の星を見て、エルサレムのヘロデ王のところに来た。これを聞いたヘロデ王は、新たな王の誕生は自分の王位を脅かすと不安になり、幼子を殺そうと考え、彼らに「幼子を見つけたら知らせてくれ」と頼んだ。

博士たちは、幼子の星に導かれて幼子に会い礼拝をささげた。帰り道は、神様から「ヘロデのところへ帰るな」と告げられ、別な道を通って自分の国に帰った。

すべての事を知っておられ、最善のことをして下さる神様に聞き従って歩むことが祝福されることを覚えて歩もう。


  
2022年 12月18日コラム 「イエス様の声を聞き分ける」

 羊飼いは、囲いから羊たちを外に出す時がある。「羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ福音書10:3,4)

 イエス様は私たちの人生の羊飼いであり、イエス様を信じる私たちは彼の羊である。私たちは、イエス様の声を聞き分けることができる。そして、先に立って行かれるイエス様についていくとき、いのちの道を歩むことができる。

私たちは「主よ。私たちの耳を開いてください。そしてイエス様の声を聞き分けて従って歩めるように導いてください」と祈りながら歩んでいこう。

 
 
2022年12月11日コラム 「神のわざがあらわれるため」

弟子たちがイエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねた。イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と答えられた。そして、イエス様は、彼の目に唾でこねた泥を塗られた。イエス様は、彼にその泥をシロアムの池で洗えと命じられた。彼は、言われたとおりにすると目が見えるようになった。

イエス様は私たちのいのちの光である。私たちは、置かれた状況や与えられているものは、すべて神様の良い働きがあらわれるためであると信じて、イエス様に信頼して命じられた通りに従っていのちの光の中を歩んでいこう。その時に、神のわざがあらわれ祝福されるのである。


  2022年12月4日コラム 「真理はあなたがたを自由にする」
 「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ福音書8:32)と真理であるイエス様は、信じて従う者を自由にすると約束している。信じる者は、これはダメ、これをしてはいけないという戒律から解放され、自由に歩むことができる。
 使徒パウロは、「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ書5:13)と述べている。
 自由は、自分の願いを実現するために用いることもできるが、パウロは、愛をもって互いに仕え合うために用いるように勧めている。私たちは、自由を他の人の徳や益となるように用いていこう。

  2022年11月27日コラム 「私たちの光」
 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8:12)とイエス様は語られた。 イエス様は、私たちにいのちを与え、人生の歩みをささえる光である。イエス様に従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、内にいのちの輝きを持つと約束しておられる。
 私たちは、イエス様を罪からの救い主として信じて、従って歩んでいこう。神の望まれる歩みをし、私たちの内に永遠のいのちの光を持ち、周りの人たちにイエス様の光を輝かせて歩もう。
 
 2022年11月20日
コラム 「罪に定めない」

 イエス様を殺したいと考えているユダヤ人指導者が、イエス様を訴えるために、姦淫の現場で捕らえた女性をイエス様の前に連れて来て「このような罪を犯した者を律法は石打の刑にするよう命じている。あなたはどう考えるか」と質問した。イエス様が「石打の刑にすべきである」と言ったら、犯罪者の死刑執行の権限を持つローマ帝国に反逆したと訴え出てイエス様を有罪にしようとした。
 しかし、訴える人にイエス様は「罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と言われ、誰も石を投げなかった。次に、イエス様は、この女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と罪のゆるしを宣言され、彼女の罪の罰を代わりに十字架で引き受けようとされている。そして「これからは、罪を犯してはならない」と諭された。私たちはイエス様の愛によって生かされていることを覚えて、感謝しながら歩んでいこう。
 
  2022年11月13日コラム 「一つの願い」
 「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」ダビデ王は、外敵との戦いで生き残ることができたなら、私の主の家である宮にこもり、主なる神様のうるわしさをほめたたえようと望んでいた。
 なぜなら、「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私をあげてくださるからだ」戦場の勇士であるダビデも、一人の人間としての弱さや恐れを隠すことをしないで、そのまま主の言い表し、守られる主の御名をほめたたえた。
 悩みの時に、私たちは弱さや恐れを主イエスに言い表し、主をほめたたえて歩もう。

 2022年11月6日コラム 「」
 
 2022年10月30日「渇いているなら」
 イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7:37,38)
 主なる神様との交流ができなくなった人間は、心にぽっかりと穴があいて心が渇いている。
 心の渇きをいやしてくださるのはイエス・キリストである。イエス様は、わたしのところへ来なさい。そうすれば渇きはいやされ、その人の心は泉となって生ける水が流れ出るようになると約束された。
 私たちの心の渇きをいやすためにイエス様のところへ行こう。心の渇きが満たされた信じる者は他の人を祝福することになるのである。
 
 2022年10月23日
「離れていくのか」
 カペナウムの会堂でイエス様は、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と語られた。「人の子であるイエスの肉を食べる」は、人の肉を食べるという印象を与え、「その血を飲まなければ」は、血を食べることを堅く禁止されていたユダヤ人にとって神を冒涜する暴言であった。このため、弟子たちのうちの多くの者がイエス様を離れ去った。「あなたがたも離れていきたいのか」と尋ねたイエス様に、12弟子たちは、「あなたは、永遠のいのちの言葉を持っておられます。あなたが、神によってこの世からきよめ分けられ、神から遣わされた方であると信じている」と答え、離れなかった。
 12弟子たちと同じように、私たちも、父なる神様によって、イエス様のところへ引き寄せられている恵みに感謝して歩もう。
 
 2022年10月16日「天から下って来たパン」
 何度もイエス様は、ご自分を指して「わたしは、天から下って来たパンです」と語られ、天の父なる神様から遣わされた者であることを明らかにされた。そしてイエス様を信じるなら、永遠に生きることができ、天において体をもって復活できると約束されている。
 「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(44節)
 今も、イエス様は、神の恵みによってあなたや私を招き寄せておられる。だれでもイエス様のところに来て、信じて歩むなら、信じた時から永遠のいのちを持って生きることができ、やがてこの地上を去る時も、体の復活の希望を持つことができる。何という神の恵みであろうか!
  
2022年10月9日「わたしは決して捨てません」
 イエス様は、「わたしがいのちのパンです」と語られ、「ご自身を私たちによって食べるもの」とされた。イエス様の十字架にあらわされた愛を信じて受け入れることが、イエス様をいのちパンとしてかみしめ味わうことなのである。
 そしてイエス様のところに来る者を、「わたしは決して捨てません」と約束された。父なる神の御心に従って、イエス様に与えられた者に永遠のいのちを与え、一人も失うことなく、終わりの日に二度と死ぬことのない体で復活させてくださるのである。何という神の恵みであろうか。
 私たちの歩みには、さまざまなことが起こる。しかし、「わたしは決して捨てません」と約束されたイエス様に信頼して従って歩もう。

  
2022年10月2日わたしだ、恐ることはない
 大勢の人々の空腹を満たすという難問が解決しホッとしている弟子たちは、舟に乗り、夜のガリラヤ湖上で嵐に会い、命を守る行動をとる必要性に迫られた。すると、イエス様が湖の上を歩いて近づいて来られた。弟子たちは、ありえない光景を見て恐ろしく感じた。
 けれども、イエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられた。そこで、彼らはイエス様を迎え入れようとした。すると、まもなく、舟は目指す地に着いた。
 私たちは、突然の試練に遭い、恐れることがある。その時は、イエス様が一緒におられることの必要性を覚える時である。イエス様がともにおられることによって、私たちは安心や喜びをもち、その都度、目指しているところに無事に着くことができるのである
  
 2022年9月25日「足りない」
 ガリラヤ湖の北東に移ったイエス様一行に、男だけでも五千人の人々がついてきた。イエス様が病人をいやす奇跡を見たからであった。食べ物の調達が困難な所であった。するとイエス様は、弟子のピリポをためして言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」。ピリポは「二百日分の賃金でも、パンは足りない」と答えた。アンデレは「ここに少年が大麦の五つのパンと二匹の小さい魚を持っています。しかし、人が多すぎて役に立ちません」と言った。
 イエス様は、人々を座らせ、少年のパンと魚を取り、感謝をささげて、人々に分けられた。すると彼らは十分食べた。「余ったパン切れを無駄に捨てないように集めなさい」と命じられ、集めると12のかごに一杯になった。
 弟子たちが学んだのは、不可能と思えることを自分の力や常識だけでやろうとすると「できない」という結論になる。けれども共におられるイエス様に手元にある物をゆだねる時に、必要は満たされ、祝福されるということである。このことを忘れないようにしよう。
 
 2022年9月18日 「」
 イエス様は、このように語られました。「まことに、まことにあなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ福音書5:24)
 イエス様の語られる言葉を聞いて、天におられる父なる神様を信じる者は、その時から永遠のいのちを持ち、神様の裁きに会うことがなく、死からいのちへと移っていると約束されている。
 また、すべての人間は、肉体的に死んだ後、新たな体をもって復活し、イエス様の言葉に従って歩み善を行った者は、いのちを受け、永遠に滅びない体をもって天国へ入る。反対にイエス様の言葉に聞き従わず悪を行った者は、裁かれ、永遠の滅びに定められる。
 私たちは、神の恵みによって、キリストを通して、死からいのちへ移されており、二度と死なない体をもって天国に復活できることを信じて、感謝して歩もうではないか。
 
2022年9月11日「教会は神の神殿」
 当教会は、今年創立40年を迎えた。それは主キリストの深いあわれみと恵みによるものである。キリストを信じる者の集まりが教会である。教会を建物にたとえると、土台がイエス・キリストにあたり、その土台の上に、働き人が教会を建て上げる。試練の裁きの火の中を通されて、金、銀、高価な石を材料にして火の中を通っても残るものを建て上げた人には報いがあり、木、草、わらなど焼ける材料で建て上げた人は損害を受けるがその人自身はかろうじて助かる。
 キリストを信じる“あなたがた”が集う教会は、神の神殿である。なぜなら、神の霊があなたがたの内に住んでおられるからである。聖なる教会を壊す者は、神がその人を滅ぼされる。あなたがたは、きよい神の霊が住まわれる神殿であることを自覚して、共に教会を建て上げていこう。
 
2022年9月4日「今なお働いておられる神」
 イエス様が38年間苦しんでいた病人をいやされたのは、安息日(土曜日)であった。安息日は仕事を休み主なる神様を礼拝する日であった。ユダヤ人たちは、この人が床を取り上げ運んだことが、安息日の規定を破ったことになると非難した。彼らは、安息日にこのようなことをしたイエス様を迫害し始めた。
 イエス様は、「わたしの父である神は、今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と答えられた。天におられる父なる神様は、いつでも、どこでも、病に苦しむ人を助けられるお方である。また、何よりも、人がイエス様を信じて永遠のいのちをもつことを願って働いておられるのである。私たちは、安息日に神を礼拝することを大切にし、神の愛に生かされていることを感謝して歩もう。

 
2022年8月28日「よくなりたいか」
 38年間、病んでいた人がべテスダの池の周りに伏せっていた。当時、この池は天使が舞い降りて池の水をかき回した後、最初に池に入った人の病気が治ると信じられていた。自力で動くことが困難なこの人は、他の人が池に入るのを見送るだけであった。イエス様はこの人に「よくなりたいか」と尋ねた。「体の不自由な私を池に入れてくれる人がいないため、他の人が先に池に降りていく」と、その人は病気が治ることをあきらめていた。するとイエス様は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じた。すると、その人は、すぐに治って、床を取り上げて歩き出した。                                 愛する兄弟姉妹、長い間、病や問題を抱えて、解決を願ってもかなわず、自分だけは何も変わらない。すると、私たちは、あきらめてしまい、イエス様に助けを求めることもしなくなるのではないだろうか。しかし、今もイエス様は、あなたに「よくなりたいか」と尋ねておられ、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じてくださる。私たちの人生の転換点はイエス様なのだ。
 
2022年8月21日
「あなたの息子は」
カペナウムに、病気で死にかかっている息子をもつ王室の役人がいた。イエス様がガリラヤのカナの町におられると聞き、彼はイエス様のところへ行った。そして、イエス様に自分の家に来て息子をいやしてくださるよう願った。彼の願いに対してイエス様は「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と語られた。
役人は、イエス様の言葉を信じて家に帰った。すると、イエス様が「息子は直っている」と語られた時刻に治っていた。彼と家族も、イエス様が救い主であると信じた。
私たちも、イエス様に助けを求めよう。語られる神の言葉を信じて歩もう。そこに神の祝福があふれるのである。

 

 
2022年8月14日 「生ける水を」
サマリヤ人とは付き合いをしないユダヤ人男性が「わたしに水を飲ませてください」と井戸に水を汲みに来たサマリヤ人の女性に願い出た。さらに、この人は、「あなたが神の賜物を知り、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたら、あなたから水を求めた。その人はあなたに“生ける水”を与えた」と彼女に告げた。「神の賜物」「あなたに水を飲ませてくれという者が誰であるか」「生ける水」?…。彼女にはその言葉は理解できなかったであろう。
語りかけたのはイエス様であった。「キリストと呼ばれる救い主が来られるのを知っている」と女性がイエス様に言うと、「わたしがそれです」とイエス様が救い主であると告げられ、彼女はイエス様を救い主と信じた。また、彼女を通じて、イエスを救い主と信じるサマリヤ人が起こされた。
イエス様は、信じて欲しいと人のところへ出かけ語りかけられる。あなたも私もその一人であった。きょうもイエス様は信じてほしい人のところへ出かけ語りかけられている。私たちはそのお手伝いをしよう。


2022年8月7日「神は世の人々を愛されている」
神は、世に生きるすべての人間を愛しておられる。かけがえのない神の独り子イエスのいのちを与えて、すべての人間の罪をあがなわれたほどの神の愛である。
それはイエスを信じる者が、滅びないで、永遠のいのちを持って歩んで欲しいと神が願っておられるためである。
神に愛されている者として、永遠のいのちを持って、日々、主イエスとの交わりを大事にして喜びと希望をもって歩んでいこう。

 
2022年7月31日「平安を与える計画」
 400年近く続いた南ユダ王国は、20代目の王ゼデキヤの治世9年目にバビロン帝国によって滅ぼされた。多くの人々がバビロン帝国内に強制移住させられた。ゼデキヤ王も、バビロンへ連れて行かれた。これは、王と人々が主なる神様を捨てて、別な神々に仕えた結果であった。
 しかし、70年後、人々はエルサレムに帰ることが預言者たちによって予告されていた。
 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29:11)主なる神様は、罪を正しく裁かれる方であると同時に、愛の方として平安を与える計画によって、私たちに将来と希望を与えてくださる方である。その約束を信頼して歩もう。


2022年7月24日「どのような苦しみの時にも」
 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント書1:4)私たちの経験する苦しみには、神からの慰めがあり、私たちも、他の苦しみの中にある方を理解し、慰めることができると約束されている。
この度の病によって、私は、一瞬、自分の生きる場所を失ったような気持ちになった。けれども、多くの救急隊員、医療従事者、家族、友人知人の優しさや配慮、祈りに支えられて、回復途上にある。背後に主なる神の導きと慰めがあったことを覚えて深く感謝している。
神から受けた慰めは、別な方にあらわしていきたい。


2022年7月17日「死の陰の谷を」
 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)
 強い武器を持たない羊は、オオカミなどに襲われると簡単に死んでしまう。しかし、羊に気を配っている羊飼いは、先端に金具のついたむちにより、野獣を倒し、羊たちを守ってくれる。
 同じく、私たちの羊飼いであるイエス・キリストは、私たちの様々な試練や生死にかかわる出来事にも気を配っておられ、私たちを守られる。いつでも、どんな時にも、私たちは羊飼いであるイエス・キリストの声を聞き分け、従って歩もう。


2022年7月3日「新しく生まれる」
 夜こっそり、厳格に神の教えを守っていたパリサイ派の一人の議員ニコデモが、イエス様のところに来た。彼は、病人をいやしたり、悪霊を追い出すイエス様は神のもとから来た教師だと知っていると言った。するとイエス様は「新しく生まれなければ、人は神の国を見ることはない」また「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」と人に本当に大切なことを語られた。
 神の国、言いかえると天の国を見る、天の国に入るために、聖霊なる神様によって霊的に新しく生まれることが必要である。“イエス様を受け入れた人々は、神の子とされる特権が与えられる”ということでもある。イエス様を信じる者は、神の子とされる特権にあずかり、御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を結ぶのである。何と幸いなことであろうか。


2022年6月26日「恵みとまこと」
 ヨシア王の後、主の前に悪を行ったエホアハズ王、エホヤキム王と続いた。エホヤキム王の時代に、まもなく主の命令によって、アッシリヤ帝国に取って代わったバビロン帝国のネブカデネザル王によって南ユダ王国は滅ぼされる。ユダ王国の王たちや民が、主を捨て、偶像を礼拝した故であった。特に、マナセ王の犯した悪、偶像礼拝と罪のない者を処刑した罪を、主はゆるそうとはされなかった。
しかし、その中に、神の「恵みとまこと」があらわされている。神のまことのゆえに、神は人の罪を裁かれる。恵みのゆえに、神の変わらない愛が罪を犯した人に注がれる。やがて、70年後にユダの人々はカナンの地に戻るのであった。以後、ユダの人々が偶像礼拝に走ることはなくなった。
 イエス・キリストの十字架にあらわされたのは、神の恵みとまことであった。まことに従ってキリストが人の罪をあがなうために死なれた。恵みによって、イエスを信じる者は、だれでも罪がゆるされ、永遠のいのちを与えられる。キリストに信頼し、将来と希望をもって歩もう。


2022年6月19日「迎え撃とうとして」
 アッシリヤ王と戦おうと北上してきたエジプト王ネコをヨシヤ王は迎え撃とうとして、あっけなく戦死してしまった。Ⅱ歴代誌35章20節以下には、ネコがヨシヤ王と戦う意思がないので立ち去るように求めたが、「しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。」(22節)と書かれている。神の言葉に注意深く聞く者であったヨシヤ王が、この時にはネコの口から出た神の言葉に聞き従わなかったために起こった出来事であった。
 人とぶつかり合ったり、敵対する時に、私たちは静まって常にともにおられるイエス様に聞いて歩む姿勢を忘れないようにしよう。そこに主の導きと祝福があるのである。


2022年6月12日「主を愛し、隣人を愛する」
「ヨシアのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった」(Ⅱ列王記23:25)と記される、南ユダ王国16代目の王、ヨシアは、主の目にかなう王であった。
私たちは、慌ただしい毎日の生活の中で、共におられる主イエスの存在や愛することを忘れてしまい、自己中心的な言動を繰り返していることがある。また自分を愛するように周りの人を大切にするより、自分の思い通りに人を動かすことをしてしまいがちである。「主を愛すること、隣人を愛することができるように、主よ、弱い私たちを助けてください」と祈り求めていこう。


2022年6月5日「まことの礼拝を」
エルサレム神殿への遠方からの巡礼者のために、神にささげる動物の販売が神殿境内地内で行われていたが、イエスが激しく怒り商売人を追い出そうとされた(ヨハネ福音書2章)。
 神殿は、神が臨在され礼拝を主なる神にささげる場所である。イエスは、その本来の目的にかなうようにしてほしいとの願いからの行動であった。
 キリストを信じる者たちにとって神殿とは、建物ではなく、十字架ですべての人の罪をあがなうために死んで、3日後に復活されたイエス・キリストご自身である。生きておられるイエスが信じる者の内に臨在されることを信じて、共に集まり、礼拝をささげ、主の望まれることを行い、神の栄光をあらわそう。



2022年5月29日「主のまえにへりくだって」
ヒゼキヤ、マナセ、アモンと続いたユダ王国の王位は、ヨシア王の代となった。「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と記されている。ヨシア王は、廃れていた神殿を修復した。その時、神殿内で律法の書が見つかった。この書の朗読を聞いたヨシア王は、心を痛め、主の前にへりくだって、自分の衣を裂き、主の前で泣いた。そして彼は民に「主の御心を求めよ」と命じた。神の言葉に聞き従って歩むことが人々の祝福につながると信じていたからである。
私たちも、日々、神の言葉である聖書の言葉に聞き従って歩もう。そのことは、私たちへの神様からの祝福につながるのだから


2022年5月22日「主の前にへりくだって」
 ヒゼキヤ王の息子マナセがユダ王国の王位に着いた。父と異なり、マナセ王は、異教の神々を崇拝し、大胆に神殿に偶像を持ち込み、主の前に悪を行った。主なる神は、預言者たちによってマナセに北王国と同じくユダ王国の滅亡が告げられた。しかし、マナセ王は、預言者の言葉に耳を傾けず、人々に罪を犯させ続けた。そこで、神は、アッシリヤ王の将軍たちを遣わしマナセを捕えてバビロンに連れて行った。
 Ⅱ歴代誌33章には次のように書かれている。悩みを身に受けた時、マナセ王は「その神、主に嘆願し、神の前にへりくだって神に祈った。そこで神は、彼の願いを聞き入れ、切なる求めを聞いて、彼を王国に戻された」。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6)のとおりである。私たちは、主イエス様の前に謙遜に、神の御心を聞いて従って歩もう。主は、必ず私たちを祝福してくださる。


2022年5月15日「わたしは救い出す」
 アッシリヤ軍にエルサレムが包囲される前、ヒゼキヤ王は、預言者イザヤによって「あなたは死ぬ。治らない」と宣告された。ヒゼキヤ王は、「主よ、どうか思い出してください。私がまことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩む、あなたがよいと思われることを行ってきたことを」と祈り、大声で泣いた。すると、神は預言者イザヤを通して「あなたの祈りと涙を見た。わたしはあなたをいやし、あなたの寿命を15年延ばす。わたしはアッシリヤ王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守る」と語られた。
 ユダ王国がアッシリヤ帝国により攻め滅ぼされるかどうかの危機的な状況において、ヒゼキヤ王は死の病にかかり、いやされた。これはヒゼキヤ王が、人間的な判断と方法で国を守るのではなく、主なる神に信頼して祈り求める時、神が助け出してくださることを学ぶためであった。
 私たちが試練にあう意味は、私たちの主キリストへの信頼が問われており、キリストが助けてくださることを学ぶためである。


2022年5月8日「立ち往生したとき」
預言者イザヤは「アッシリヤの王は、エルサレムに侵入しない。わたしはこの町を守って、これを救おう」と預言した。その通りに、エルサレムを包囲していたアッシリヤ軍は、夜のうちに主の使いによって18万5千人が滅ぼされた。アッシリヤ王セナケリブはニネベに帰った。そして偶像の宮で彼は、二人の息子たちによって殺された。すべて預言者イザヤの預言通りであった。
圧倒的なアッシリヤ軍により包囲された南ユダ王国のヒゼキヤ王は、対抗できる軍事力も強力な同盟国の支援もなく、打つ手はなかった。ただ、主なる神の力に頼るだけであった。「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください」と祈るだけであった。自分の力や知恵ではどうすることも出来ない時でも、あきらめないで私たちは、ヒゼキヤと同じく主なるイエス様に寄り頼み「主よ。私たちを救ってください」と祈ろう。必ず、主の助けがあると信じて。


2022年5月1日「イエスと共に歩むところに」
 イエスの宣教活動で、最初に行われた奇跡は、ガリラヤ地方のカナの町での結婚式であった。イエスは、水がめの水をブドウ酒に変えられた。「ご自身の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ福音書2:11)とある。イエスの内に働く神の力を指し示し、神がイエスを遣わされたという事実とその使命を明らかにするのである。その結果、弟子たちは信じた。弟子たちのイエスに対する信頼が、この奇跡を見ることにより、さらに深められたのであった。
 イエスと共に歩む所で、その時に必要なぶどう酒がイエスによって備えられるという奇跡は起こった。そして、イエスを信じる人は、その信仰を強められるのである。大切なことは、私たちがイエスと共に歩むことである。


2022年4月24日「見ずに信じる者は幸い」
 復活されたイエスが弟子たちに現れた日曜日の夕方、12弟子の一人デドモと呼ばれるトマスは、その場にいなかった。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ったが、トマスは、“私は、釘の跡を見、釘とわき腹の傷跡を触らなければ、決してイエスの復活を信じない”と言った。次の日曜日、また戸を閉めた部屋に、トマスと他の弟子たちがいた。そこへイエスは来られ「平安があなたがたにあるように」と言われた。トマスには、私の体を見て触り、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語られた。トマスは、「私の主、私の神」と告白し、復活されたイエスを信じた。するとイエスはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われた。
 私たちは、復活のイエスを目で見ることはできず、聖書に書かれたイエスの復活の言葉を聞くだけである。「見ずに信じる者は幸いです」とのイエスの言葉を信頼して、生きておられるイエス様が共に歩んでおられることを信じて歩もう。


2022年4月17日「平安があなたがたに」
週の初めの日である日曜日の夕方、死者の中から復活されたイエス様は、弟子たちのところに現われてくださった。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸を堅く閉めていた。ところが、弟子たちの中に、復活され生きておられるイエス様が立たれた。「平安があなたがたにあるように」と一番弟子たちに必要な安らぎを与えられた。十字架につけられた時の手とわき腹の傷跡をイエス様は示された。生きておられるイエス様を見て、弟子たちは喜んだ。次に「聖霊を受けなさい」と命じられ、聖霊の賜物を受けた者として弟子たちは、イエス様と同じように、和解の福音を伝える者とされた。イエス様は、私たちに、恐れには平安を、イエス様を失った喪失感には喜びを与えられる。そして聖霊を与え、使命を与えられる方である。このイエス様とともに歩もう。


2022年4月10日「主に信頼して」
 南ユダ王国は、再びアッシリヤ軍に攻められ、エルサレムが包囲された。徹底抗戦をするヒゼキヤ王にアッシリヤ軍は心理作戦に出た。アッシリヤ軍は、エルサレムの人々に対してヒゼキヤ王および主なる神への不信感をあおり、あざけり、脅迫をした。ショックを受けたヒゼキヤ王は神殿に行き、次に預言者イザヤに使者を遣わし、助けを求めた。イザヤは、ヒゼキヤに「敵の言葉を恐れるな。敵の王は、あるうわさを聞いて自分の国へ引き上げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す」と主の言葉を告げた。事実、帰国したアッシリヤ王はイザヤの預言通りになった。
いつ、いかなる状況に置かれても、私たちは主の前に出て、主に信頼して助けを祈り求めよう。


2022年4月3日「イエスは、見つけて、言われた」
 ヨハネの福音書1章43-51節には、ピリポとナタナエルは、イエス様が彼らを見つけて、弟子となるように招かれている。ピリポは「わたしに従って来なさい」とイエス様に声をかけられ、ピリポに誘われたナタナエルは「ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」とイエスから声をかけられている。
 私たちもイエス様を信じたのは、私たちが選んだからではなく、イエス様から招かれたからである。「わたしがあなたがたを選び、任命したのです」(ヨハネ福音書15:16)とイエス様は約束されている。
 私たちは、イエス様が私を選び任命されたと信じて歩もう。また人にイエス様を伝える時も、イエス様がこの方を招かれると信じて行動しよう。