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  今週のコラム
 
2024年3月24日コラム「朝に新しい恵みを」

 イスラエル王国第2代のダビデ王は、朝毎 に主の恵みを聞き、主に信頼し、主に歩む道 を尋ね、ゆだねていた。私たちの朝は、慌た だしく、眠い時であり、主の前に静まる時間 を取り分けることは難しさがある。 けれども、朝に恵み深い主との交わりの時 間を持つことにより、私たちは新たな気持ち で主の恵みに触れることができるのである。 主の守りと導きを祈りつつ主との交わりの時 間をもっていき、いつも喜んで歩もう。
 

2024年3月17日コラム「御子イエスのうちに」

イエス様を信じる人のうちには、いつもイエス様から遣わされた聖霊なる神様がいる。真理についての教えは、正しい知識をもつ人に教えてもらうことも大切であるが、まず、うちにおられる聖霊に「主よ、あなたの真理について教えてください」と祈ろう。聖霊は、すべてのことを教えてくださる方だからである。私たちは、御子イエス様のうちにとどまりつづけよう。


2024年3月10日コラム「内に住まわれる聖霊なる神様」

 イエス様を信じた人の内には、聖霊なる神 様が住んでくださる。その人は、真理である イエス様が救い主であることと、信じた者に は永遠のいのちが与えられていることを知っ ている。 だから、信じた人には、イエス様が救い主 であることを否定する人は偽り者であると分 かるのである。 初めに聞いた真理の福音を心に留めて歩も う。そうすれば、神の御子イエス様から迷い 出ることはないのである。

 
 

2024年3月3日コラム「永遠に生き続けるために」

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、天の父なる神様からではなく、この世から出てくる。肉の欲は、神様が望まない願望。目の欲は、表面的に美しく好ましいと感じるものを欲すること。暮らし向きの自慢は、持ち物や環境を誇ることである。これらを愛してはならないと警告されている。それらは、やがて消えてなくなるものである。

永遠のいのちを与えられている私たちは、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを理解し、行なうことを祈り求めよう。それが、永遠のいのちを与えられた私たちにふさわしい歩みである。

 

2024年2月25日コラム「子ども、若者、父へと成長する」

 信仰の初心者である「子どもたち」(幼子たち)は、イエス様の名によって罪が赦され、神様を父親として知るようになった。

信仰者として成長している「若者たち」は、罪のゆるしと父となった神様との交わりを喜ぶだけでなく、霊的な戦いがある。彼らは悪い者であるサタンに打ち勝ったのである。勝利の秘訣は、私たちのうちに神の言葉がとどまっていることである。

信仰が成熟した大人である「父たち」は、父となった神様との交わりを通して、神様を「初めからおられる方」として知り、不変で、永遠である方として神様を理解するようになる。自分たちはすでに永遠のいのちのうちを住んでいることをはっきりと悟るのである。

私たちは、このように信仰者として成長し、大人になるのである。日ごとに、イエス様を愛し、信頼して成長していこう。

 
 2024年2月18日コラム「兄弟を愛する」

古くて新しい戒めは、兄弟を愛することである。これは、旧約聖書(レビ記19:18)に“隣人を自分のように愛しなさい”とあり、よく知られている戒めであった。またイエス様が、“わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい”という新しい戒めでもあった。

兄弟を愛する人は、光の中にとどまるのである。憎む人はやみの中に歩み、どこへ行くのか分からないことになる。

私たちは、イエス様に愛されたように、同じ主にある兄弟姉妹を愛し、大切にしよう。経済的な配慮を必要とする人に対して配慮をすること、耳の遠い人の前で聞こえないからと悪口を言わないこと、強い人、弱い人に対して同じように正しく関わること等…聖霊の助けを頂いて実行できるように祈り求めよう。

 
 2024年2月11日コラム私たちの弁護者」

ヨハネが、この手紙を書いた目的は、私たちが罪を犯さなくなるためであると言われている。神の言葉を守るなら、私たちの内には神の愛が実現しているのである。

けれども、完全ではない私たちは罪を犯してしまうことがある。罪を犯してしまう私たちの弁護者は、いのちを捨てて私たちの罪のあがないを成し遂げられたイエス様である。イエス様は、父なる神様に罪を犯した私たちのとりなしをしてくださるのである。

弁護者であるイエス様に信頼して共に歩もう。そして、私たちの内に住まわれる聖霊の働きによって私たちが、愛する者へと変えられていくように祈り求めていこう。

 
 2024年2月4日コラム「光の中を歩もう」

私たちイエス様を信じた者は罪がゆるされている。けれども、罪を全く犯さなくなるわけではない。神が望んでおられないことを考えたり、口にしたり、行動することがある。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」と約束されている。

この約束に従って、自分の罪を言いあらわし、その罪をゆるしていただこう。そして、きよめていただき、神が望んでおられる歩みをしていこう。

 
 2024年1月28日コラム 「まったき喜び」

イエス様を信じることによって永遠のいのちを与えられた。それは大きな喜びである。日ごとに天の父なる神様、イエス様との交わり、主にある兄弟姉妹と交わることにより、私たちの喜びはまったきものとなるのである。

永遠のいのちを与えられた者として、天の父なる神様とイエス様との交わりをし、主にある兄弟姉妹と交わりをしながら、さらに喜んで歩んでいきたいものである。

 
 2024年1月21日コラム 「わたしに従いなさい」

イエス様は、ペテロにどのような死に方をするかを語られた。その時に示されたことが2つある。一つは、キリスト者は、生きている時だけでなく、自分の死によって神の栄光を現わすということ。もう一つは、ペテロと同じように、私たちは他の人のことが気になるものであるが、イエス様は、ペテロに他の人のことはあなたに関係ない、あなたは「わたしに従いなさい」と命じられた。

私たちは、生きるにしても死ぬにしても、神の栄光をあらわすことを目指し、イエス様の言葉に聞き従って歩んでいこう。

 
 2024年1月14日コラム 「私の羊を飼いなさい」

 キリスト教会の最初の棄教者となったペテ ロ。自分はイエス様の弟子と名乗る資格はな いと思っていたであろう。そんなペテロに、 イエス様は3度「あなたは、わたしを愛して いるか」と問われた。ペテロが3度「私が、 あなたを愛していることは、あなたがご存じ です」と答えると、イエス様は彼に3度「わ たしの羊を愛しなさい」と言われて、ペテロ に対して主にある兄弟姉妹に仕える使命を与 えられた。
 私たちは、ペテロ同様に失敗をしたり、罪 を犯してしまうが、主イエス様は、決して見 放さず、見捨てず、イエス様の働きに招いてく ださる。イエス様に信頼して、共に歩み、与 えられた働きを進めていこう。

 
 2024年1月7日 「大切なのは愛すること」

“聖書の命令の中でどれが一番大切ですか?”という問いに、イエス様は、“全身全霊で主なる神様を愛することと、隣人を自分のように愛することである”と答えられた。
 自分を中心にして愛することしかできない私たちは、神を愛し、隣人を愛することは自分の力でできない。信じる者の内に住まわれる聖霊なる神様の力によって可能となるのである。私たちのモデルは、完璧に神様を愛し、命を捨てて人を愛されたイエス様である。聖書に描かれているイエス様の生き方を知り、模範として、私たちの内におられる聖霊に信頼して、従って歩もう。そして、生きておられるイエス様を証ししていこう。

 
 2024年1月1日コラム 「主を待ち望む」

 他の鳥と違って体の大きな鷲は、上昇気流を見極めて、羽ばたくことなく、翼を広げて、上昇気流に乗って、旋回をしながら空高く舞い上がる。
 イエス様を信じる私たちは、自分の考えや計画を自分の力によって成し遂げようとするのではなく、静まって神様の考えや計画がなんであるかを神様に聞き、聖霊なる神様が働かれるタイミングで、その導きや力に従って進むのである。
 
 私たちがすべきことは、主イエス様を待ち望むことである。イエス様に信頼して、忍耐して期待するときに、私たちは主イエス様の働きをすることができる。今年も、主イエス様を待ち望みながら歩んでいこう。

 
 2023年12月31日コラム 「食べる魚がありませんね」

 イエス様の指示でガリラヤ湖に行った弟子たちは、イエス様と会った。弟子たちは、エルサレムですでに生き返ったイエス様と2度会い、喜んだ経験をしている。彼らは湖で夜から朝にかけて漁をしていた。ところが、明け方に岸辺に立たれて彼らに声をかけられたイエス様が分からなかった。また彼らの心はもとの状態に戻り、復活されたイエス様が分からなくなっていたのであろう。しかし、イエス様は、彼らに声をかけイエス様が分かるようにし、朝の食事の用意をして一緒に朝食を取り、弟子たちに寄り添い共に歩んでいることを示してくださった。

私たちも、頭で分かっていても、心がついていかず、身体が動かない時がある。けれども、イエス様は、私たちに寄り添い、励まし、一緒に歩んでおられることを忘れないで歩もう。

 
 2023年12月24日コラム 「お言葉どおりこの身に」

“聖霊によって神の子イエス様を身ごもり出産する”という天使ガブリエルの言葉に対して、マリアは「どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように」と告白した。神からの祝福であったが、結婚前に妊娠し不道徳な女と見なされるはずかしめと苦しみを引き受けることでもあった。

大切なことは、主がすべての支配者であることを認め、ご自身のやり方で物事を進められることを受け入れることが、一番大切なことである。それが、たとえマリアの場合と同様に、私たちの立場や名誉を失わせるようなことであったとしても。主は、私たちに最善のことをしてくださると信じて、したがって歩もう。

 
 2023年12月17日コラム
「私たちは主を見た」

キリスト教信仰の土台は、復活されたイエス様の目撃者である使徒たちの証言である。私たちは、肉眼で復活されたイエス様を見たから信じているわけではない。使徒たちが「私たちは主を見た」と証言しているから信じているのである。新約聖書が非常に大切なのは、使徒たちの証言が記されているからである。使徒たちは、弟子のトマスに口頭で語ったことを、いま文書のかたちで私たちに語っている、「私たちは主を見た」と。

 
2023年12月10日コラム「私の主、私の神よ」

復活されたイエス様に弟子たちが会った日曜日、12弟子の一人トマスはその場にいなかったのでイエス様に会えなかった。他の弟子たちから「私はイエス様に会った」という言葉を聞いてもイエス様の復活を信じることはできず、「釘の刺し傷、槍の刺し傷の痕に手を差し入れなければ私は信じない」と言った。8日後、イエス様はトマスに会うために、再び来られトマスに、自分の釘の跡、槍の跡を触るように勧め、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と諭された。「私の主、私の神よ」とトマスが告白すると、「見ずして信じる者は幸いである」と語られた。

羊は羊飼いの声に聞き従うように、私たちも羊飼いイエス様の言葉を聞いて従って歩もう。

 
2023年12月3日コラム「平和の祈り(2)」

 ああ、主よ。わたしに求めさせてください。
慰められるよりも慰めることを。理解されるよりも、理解することを。愛されるよりも、愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け。自分を忘れてこそ、自分を見出し。ゆるしてこそ、ゆるされ。
死んでこそ、永遠のいのちに復活するからです。(アッシジのフランシスコの祈り)

 
2023年11月26日コラム「平和の祈り」

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。わたしがもたらすことができるようにしてください。
 憎しみのあるところに愛を、 罪のあるところにゆるしを、 争いのあるところに一致を、
  誤りのあるところに真理を、 疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、
   闇のあるところに光を、 悲しみのあるところには喜びを。(アッシジのフランチェスコの祈り)

 
2023年11月19日コラム「平安があなたがたに」

 イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様と最後の晩餐を過ごした2階の部屋で、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていた。復活されたイエス様は、弟子たちの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにあるように」と2回語られた。そしてイエス様が弟子たちを遣わすと約束され、彼らにゆだねられた使命は、罪のゆるしに関わることであった。そのために、まず彼ら自身が他の人の罪をゆるすことが求められる。

 私たちも罪のゆるしに関わることを宣べ伝えるために、イエス様が遣わされている。そのことを覚えて、イエス様にゆるされたように人の罪をゆるして歩もう。

 
2023年11月12日コラム「羊の名を呼んで」

空になった墓から離れることができなくて、泣いていたマグダラのマリアであった。そこへ復活されたイエス様が近づいた。マリアは園の管理人だと思った。「マリア」とイエス様が彼女を呼ばれた瞬間、マリアはイエス様だと気がついた。羊たちは羊飼いの声を知っており、その声を聞き分けます。羊飼いは自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します。(ヨハネ福音書10:3,4)

イエス様の羊である私たちは、あなたの名前を呼ばれる。イエス様の声が分かるので、従って歩むことができるのである。イエス様の声にしたがって歩もう。

 
2023年11月5日コラム「再び自分たちのところへ」

 日曜日の早朝、墓に駆け付け、イエス様の遺体のない空の墓を見た、ペテロは戸惑った。ヨハネはイエス様が復活されたと信じた。けれども、ヨハネも復活の主にお会いしようとは思わなかった。
 そして二人の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちのところに戻った。彼らは聖書がイエス様の復活を預言していることを、まだ理解していなかったからである。
 日々の営みの中で「なんだろう。どういうことだろう」と不思議な主の導きを経験することがある。けれども、そこにとどまって、それ以上、主の御心やご計画を問うことをしないで、自分の元の状態に戻り、主の新たな御心を知る貴重な機会を失うことのないようにしよう。

 
2023年10月29日コラム 「イエスの弟子でありながら」

 イエス様の弟子でありながらユダヤ人たちを恐れて、隠していたアリマタヤのヨセフが、ピラトにイエス様の遺体の取り降ろしを願い出た。こうしてヨセフは、イエス様の弟子であることを公に言い表すことができた。人を恐れることから私たちが信仰を隠すことがある私たちは、イエス様を信じていることを、表明することができるように導かれる。主は、あらかじめ善い行いを備えておられる。主に信頼して従って歩もう。


2023年10月22日
コラム 「完了した」

 イエス様の十字架上での最後の2つの言葉は、「わたしは渇く」と「完了した」であった。「わたしは渇く」は、イエス様が痛みと苦しみの中で大声で祈っておられたからであった。「完了した」は、イエス様を信じる者に、いのちに至る門が開かれたことを宣言されたのであった。

 イエス様の尊い犠牲によって永遠のいのちを得ることができたのである。主に感謝して歩もう。


2023年10月15日
コラム 「私たちの国籍は天にある」

 イエス様を信じる私たちの歩みは、この地上だけで終わるのではなく、天の御国へと続くのである。私たちの希望は、やがてイエス様が再びこの地上に来られ、私たちを呼び集め、その瞬間、私たちの体は栄光の体に変えられ、空中でイエス様と会うことができることである。

私たちは、その時を待ち望みながら歩んでいこう。

 
2023年10月8日コラム 「神のご計画に従って」

 イエス様は十字架につけられ、兵士たちはイエス様の着衣を分けた。分けられない下着はくじを引いた。それは、預言の成就であり、神のご計画に従って起こったことであった。

 救い主イエス様の母となる恵みと特権を受けたマリヤは、イエス様が十字架につけられた残酷な光景を目の当たりにした。到底、神の祝福とは思えない現実であった。けれども、この厳しい現実を通って、すべての人の罪のあがないが成し遂げられ、イエス様の復活により、すべての人々に救いの道が備えられたのである。主イエス様の御業に感謝して歩んでいこう。

 
2023年10月1日コラム 「十字架につけろ」

 イエス様に罪を見出せないために釈放しようとするピラトの努力もむなしく、ユダヤ人たちの「殺せ、殺せ、十字架につけろ」という声が勝ち、やむなくピラトは、イエス様をユダヤ人たちの手に引き渡した。ユダヤ人たちの妬みと悪意に満ちた勢いでイエス様は十字架につけられたとも思える。

 しかし、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らをつぐないのささげ物とした」(イザヤ書53:10)とイザヤが預言したように、主なる神様のご計画に従って、イエス様は十字架につけられたのであった。そしてイエス様を信じる者に、罪のゆるしと永遠のいのちが与えられるのである。主なる神様の深い愛と恵みを感謝して、イエス様を証ししていこう。

 
2023年9月24日コラム 「十字架につけろ」

 無実のイエス様を釈放しようとしたピラトの努力もむなしく、イエス様を「十字架につけろ」というユダヤ人たちの声が勝ち、イエス様は十字架にかけられることになる。しかし、これは悪魔の勝利ではなく、父なる神様の救いのご計画に従って、人なったイエス様が、十字架にかかって死んで、全人類の罪をあがなうためであった。

 私たちは、イエス様の犠牲によって、罪ゆるされ、永遠のいのちを与えられたのである。そこにあらわされた神様の恵みを感謝し、イエス様を証ししていこう。

 
2023年9月17日コラム 「聞くこと」

 礼拝において大切なことは「聞く」ことだ。なぜなら、み言葉にあるように、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)からだ。礼拝は、信仰の表現である。その中心は、神の言葉を聞くことにある。必要なことはメモをしておくとよい。

聞いたみ言葉は、聞きっぱなしではなく、日々の生活に応用しよう。私たちの人格が変えられてくることまちがいなし。姿勢を正そう。眼を輝かせ。説教者の眼をやわらかく見ながら聞こう。足もとも整えよう。「聞くこと」こそが、神と人への信頼だ。愛だ。尊敬だ。

(増田祈牧師著「この人を見よ」から抜粋)

 
2023年9月10日コラム 「真理と何か」

 ローマ総督ピラトの法廷でイエス様は、一人の罪人であるピラトにご自身を証ししておられる。イエス様がピラトに示されたのは、「真理とは何か」ということであった。イエス様は、政治的な王となるのではなく、真理である主なる神をあかしすることが自分の使命であると告げて、「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言われた。ピラトに、自分の語ることに聞き従って、真理に属する者になって欲しいと望んでおられたからである。神様は、すべての人がイエス様の言葉を聞いて従い、永遠のいのちを持って歩むように望んでおられる。私たちは、イエス様に聞き従って歩もう。

 
2023年9月3日コラム 「愛のうちに」

教会は人のからだにたとえられている。「キリストによって、からだ全体は、……愛のうちに建てられることになります」 教会は、キリストの愛のうちに建てられることになる、と語られている。この点が、人の作った組織や集まりと教会の大きな違いである。

つねに神が望まれる歩みをしているとは言えない私たちであっても、キリストは愛して下さっている。私たちも愛の豊かさに満たされる者となることを祈り求めていこう。


 
2023年8月27日コラム 「妬みを愛の心に」

 金曜日の明け方、イエス様は、大祭司の家からローマ総督ピラトの所へ連れて行かれた。当時のユダヤ人は、異邦人の家に足を踏み入れると身を汚すと考えていた。そのため、イエス様を連れて行ったユダヤ人たちは、総督官邸に入らなかった。

彼らは、外側からくる汚れにはとても気を使っていた。ところが、イエス様が教えられた、「悪い考え、不品行、殺人」など人を内側から汚すものには全く関心がなかった。彼らの一番の問題は、「ねたみ」からイエス様を殺そうとしたことであった。しかし、罪人を愛されているイエス様は、人の罪をあがなうために十字架にかかり死なれた。

私たちは、その恵みに預かっている。妬みを愛の心に変えてくださるよう主に祈り求めよう。

 

2023年8月20日コラム 「立ち直って」

 大祭司の庭でイエス様の裁判の成り行きを見守っていたペテロは、2度も「あの人の弟子ではないか」と聞かれ、ペテロは否定した。すぐに鶏が3度鳴いた。これは、サタンの働きかけによりペテロが振るわれ、彼のイエス様への不信仰が明らかにされるためであった。

しかし、イエス様は前もって「あなたの信仰がなくならないように祈りました」とペテロのために祈られていた。そして「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とサタンに振るわれる目的を示された。

試練にあい、私たちのイエス様への不信仰が明らかになることがある。しかし、その目的は、不信仰から立ち直って、私たちが、不信仰から気落ちしている兄弟姉妹を励まし力づけるためであることを忘れないようにしよう。

 

2023年8月13日コラム 「心の静けさを求める祈り」

主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を与えてください。

一日一日を生き、一瞬一瞬を味わい、

平安にいたる道として困難を受け容れ、

罪深い世界をありのまま、私ではなく主がなされたように受けとめ、

御心にゆだねれば、主がすべてを御心にかなうようにしてくださることを、

また、御心によって私は、生きている間はほどよく幸せに、死んだ後は主とともにあって至福に満たされることを、信じることができますように。 アーメン
             
                               (ラインホルド・ニーバーの祈り)

 

2023年8月6日コラム 「一緒に立っていた」

捕らえられたイエス様は、大祭司の家に連れていかれた。ペテロともう一人の弟子は、イエス様が心配で彼らについて行った。もう一人の弟子が大祭司の知り合いだったため、大祭司の家の中庭に入ることができた。ところが、門番の女性がペテロに「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と尋ねると、即座にペテロは「違う」と否定した。そして寒い中庭で、ペテロは、イエス様のことが気がかりなのに、人を恐れて、イエスを捕えた人々の仲間のように一緒に炭火の前に立っていた。イエス様を愛すると言いながら、私たちも人の目を気にしてイエス様の仲間ではないという態度をとってはいないだろうか。私たちは、人の目を気にしないでイエス様を証しして歩めるように、主の助けを祈り求めていこう。

 

2023年7月30日コラム 「イエスは知っておられたので」

ゲッセマネの園にイエスと弟子たちが入ると、イスカリオテのユダは、一隊の兵士600名、祭司長、パリサイ人から送られた下役を連れてきた。イエス様は、自分に起ころうとしていることを知っておられたので、進み出て「だれを捜しているのか」と彼らに言われると、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエス様は「わたしがそれだ」と答えた。

イエスが捕らえられる時、主導権を握っているのは、祭司長、パリサイ人たちではなく、イエス様であった。私たちの人生に起こる出来事は、すべて全能の主イエス様が主導権を握って、進めておられる。主の計画は、「平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)と信じて歩もう。

 

2023年7月23日 コラム 「愛が彼らのうちにあり」

 私たちの信仰の出発点は“神が御子イエス様を遣わされたこと”を受け入れることである。そして、私たちが、御子イエス様を通して神様を知るとは、イエス様を通して私たちに注がれている神様の愛を知ることでもある。決して途絶えることのないイエス様のとりなしの祈りに支えられて、私たちは、神様の愛を終わりまであらわして歩みたいものである。



 

2023年7月16日 コラムコラム 「イエス様のとりなしの祈り」

 イエス様は、弟子たちと信じる全ての者のために祈っておられる。“イエス様を愛する人たちを悪い者から守って、聖く保ってください”という祈りである。私たちの信仰や祈りは、イエス様の祈りに支えられていることを忘れずに歩もう。たとえ私たちが祈れなくなっても、イエス様は私たちのことを覚えて、祈っておられるのである。

「誰が、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださいます。」(ローマ8:34)主イエス様の祈りに私たちが支えられていることを覚えて、私たちも絶えず祈っていこう。

 

2023年7月9日コラム 「この世から取り分けられた人たち」

 最後の晩餐の席での最後は、イエス様の祈りであった。イエス様の祈りによって人が救いに至るまでの営みが分かる。まず父なる神様が人を選ばれる、この世から取り分けられた人が、御子イエス様の手にゆだねられる。その人たちに様々な方法で御言葉が届けられ、聖霊の導きによって人々が、御言葉に対する信仰の応答をするようになる。

 あなたや私は、神によって選ばれた人である。そしてイエス様の御手の中にゆだねられている。その幸いを覚えて、感謝しよう。そして、イエス様に聞いて、従って歩もう。

 

2023年7月2日コラム 「すでに世に勝った方」

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが、わたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」とイエス様は語られた。私たちは、この地上に生きている時、患難がある。つまづくことや、信仰が揺り動かされたり、誰も信じられない絶望感を持つことがあるだろう。けれども、イエス様は大いなる敵に対して圧倒的な勝利を収めている。イエス様は、十字架上の死によってすべての人の罪をあがない、復活することによって死に対して勝利しておられる。勝利者であるイエス様と共に歩むならば、私たちは平安と喜びをもって歩むことができるのである。

 

2023年6月25日コラム「私たちは神の作品」

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

イエス様を信じた私たちは、神の作品である。その目的は、良い行いをするためである。しかも自己中心的な私たちのために、神様は、私たちが良い行いができるように、あらかじめ良い行いを備えてくださるのである。

それは、救いが神様からの贈物であって、私たちが誇ることのないためであったように、私たちが、良い行いをして自分を誇ることがないように、神様が、あらかじめ良い行いを準備してくださるのである。私たちは神様に造られた作品であって、神様の深い配慮に導かれていることを感謝して歩もう。

 

2023年6月18日コラム 「嘆きは喜びに」

 「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と語られたイエスの言葉の意味が分からず、弟子たちは、互いに「何のことだろうか」と話し合っていた。

 まもなく目の前で十字架にかけられて処刑されるイエス様を見て、弟子たちは嘆き悲しむが、3日後にイエス様は死者の中から復活され、弟子たちは生きておられるイエス様に会い、喜びにあふれる。そして、イエス様によって罪があがなわれた者たちは、イエス様の友となり、御心を教えていただけると約束されている。イエス様の名によって天の父なる神様に御心の通りに祈り求める時、その願いは答えられるのである。私たちは生きておられるイエス様によって喜びをもって歩むことができるのである。


 

2023年6月11日コラム 「わたしが去って行くことは益」

これまで一緒に過ごしていたイエス様が、去って行くことを聞いた弟子たちは、イエス様を失うのではと不安になり深く悲しんでいた。そのような弟子たちに対してイエス様は、父なる神様を知らない人々が、弟子たちを迫害することを預言された。

けれども、イエス様が去っていくことは弟子たちの益になると言われた。弁護者であり、真理の霊である神様が、弟子たちに遣わされ、世の誤りを明らかにし、真理について友である弟子たちに教えられるからである。聖霊なる神様は弱い私たちを助ける方である。決して私たちを見捨てることはないのである。この世では苦難があるが、平安と喜びのうちに歩むことができるのである。

 

2023年6月4日コラム 「世から選び出した」

1世紀当時のイスラエルの人々は、父なる神様から遣わされた神の独り子イエス様を受け入れず、
かえって憎み迫害した。イエス様がこの世から選び出した弟子たちや私たちも、
同じように世の人々に憎まれ迫害されるとイエス様は語った。

けれども、イエス様が、父なる神様の元から遣わす聖霊なる神様は、弟子たちや私たちと共に、
イエス様について証しすることは続いていくのである。私たちは、内におられる聖霊と共に歩んでいこう。



2023年5月28日コラム 「互いに愛し合いなさい」

「互いに愛し合いなさい」とイエス様は繰り返し、弟子たちに命じられた。イエス様は、自分を見捨てて逃げることを承知の上で、弟子たちを「友」と呼ばれ、友のために自分のいのちを十字架において捨ててくださった。それは、イエス様が、私たちを愛して、罪をあがない、永遠のいのちを与えるためであり、私たちが神の御心にかなった祈りをささげ、実を結ぶためであった。

イエス様の御心は互いに愛し合うことである。信じる者の内に住まわれる聖霊の助けによって、私たちは、互いに関心を持ち、相手を理解し、大切にして歩もう。


 

2023年5月21日コラム 「わたしにとどまれ」

イエス様は、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」と語られた。

私たちが、イエス様にとどまることが、実を結ぶために必要なのである。静まってイエス様の言葉を聞いていくこと、絶えず天を仰いでイエス様の御顔をしたい求め、祈りと願いを聞いていくことなど、日々のイエス様との交わりをして、イエス様にとどまり続けよう。

そして、イエス様に愛されているように、互いに愛し合いながら歩み、イエス様の弟子であることの実を結ぼう。

 
2023年5月14日コラム 「すべてのことを教える方」

イエス様を受け入れず、罪にあふれたこの世において、イエス様を愛する私たちが、互いに愛し合うことによって、  この世の人々は、私たちがイエス様の弟子であることを認めようになる。

イエス様を愛する私たちの内に住んでくださる助け主、聖霊なる神様は、2つのことを私たちにしてくださる。一つは、聖霊は、私たちに、救いについてすべてのことを教え、イエス様の語られた言葉を思い出させてくださる。もう一つは、 イエス様が残してくださる平安を与えてくださる。

これらの約束をしたイエス様に信頼して、聖霊に従って日々歩んでいこう。


 

2023年5月7日コラム 「もう一人の助け主」

まもなく地上での使命を終えて天に帰られるイエス様は、父なる神様にお願いして、もう一人の助け主である、真理の御霊を与えて、弟子たちと共にいて内にいるようにすると約束された。イエス様が再び戻られるまで、弟子たちはイエス様に捨てられることはないのである。

もう一人の助け主とは、聖霊なる神様のことであり、イエス様と同じく、弟子たちをとりなし、弁護する方である。また、聖霊なる神様は、弟子たちがイエス様の戒めである「互いに愛し合う」ことを助けてくださる。

弟子たちと同じく、私たちをとりなし、弁護してくださり、互いに愛し合うことを助けてくださる聖霊なる神様に信頼し感謝して日々の信仰生活を歩もう。

 

2023年4月30日コラム 「イエス様のわざを行おう」

「わたしを見た者は、父を見たのです」 これは、弟子のピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と問いかけたことに対するイエス様の答えである。

イエス様と天の父なる神様とは一体であり、イエス様の言葉や行動はすべて父なる神様から出たものである。またイエス様を信じる者も、神様の御心を知り、イエス様の行うわざを行うのである。

主イエス様のわざを行うことを願う人に、イエス様は「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と約束されている。主の御心を行うために、私たちは「主の御心を教えてください。それを行えるように良い行いを備えてください」と祈りながら、日ごとの歩みを進めていこう。

 

2023年4月23日コラム 「イエス様から目を離すな」

イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14:6)と語られた。イエス様を殺そうとしているユダヤ人指導者たちの手にイエス様が捕らえられると、ペテロは最初の棄教者となり、他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げた。

けれども、弟子たちを愛するイエス様は、彼らを見捨てず、見放さなかった。不信仰な私たちであるが、イエス様は私たちを見捨てず、見放さない方である。いろいろな課題に出会うが、いつもイエス様に信頼し、イエス様から目を離さないようにして歩もう。

 

2023年4月16日コラム 「新しい戒め」

イエス様は、弟子たちに「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。」と勧められた。そして「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが、わたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られ、イエス様の弟子であることの目に見えるしるしは、互いに愛し合うことだと教えられた。

イエス様に愛されている者として、内に住んでおられる聖霊の働きによって愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった実を結んでいこう。

 

2023年4月9日コラム 「ここにはおられない」

イエス様が十字架にかかり死んで墓に葬られた後、イエス様に従っていた女性たちは、墓に納められたイエス様の遺体を捜していた。けれども、イエス様の遺体は見つけることができなかった。イエス様は復活されて生きておられ、どこででもお会いできる。

私たちが、イエス様を探し求めていく時、必ずイエス様にお会いできる。そして永遠のいのちを与えられて、私たちは、イエス様とともに歩み、神様に祝福された生涯を送ろう。


2023年4月2日コラム 「イエス様の道」

 イエス様の受難と死の道は、弟子のひとりイスカリオテのユダの裏切りによって開かれた。その時に主導権を握っていたのはイエス様ご自身であった。イエス様が、パン切れを浸してユダに与えると、サタンが彼の中に入った。イエス様はユダに「あなたのしようとしていることを、今すぐにしなさい」と言われると、すぐに彼は暗やみの中に出て行った。

 私たちはイエス様を信じる者となり、光の子とされた。イエス様を見上げて、共に歩もう。その道は険しくとも祝福の道であることを忘れないようにしよう。